いよいよ冬の気配に包まれる。僕が最も忌み嫌う季節だ、寒いのが嫌だから。
5年ぶりにコートを新調した。ユニクロのウールカシミアチェスターコート。今使ってるポリエステル素材のチェスターコートは着丈の長さと全体のシルエットなど気に入ってはいたが、どうにも防寒性がもう一歩で、さらに5年も経てば随分表面の生地も薄汚れてきてそろそろ替え時だろうとは思っていた。
色々選択肢がある中で大正義ユニクロに手を出したのは一重にその安さということもさることながら、一方でポリエステルではなくって、ウール90%カシミア10%という素材感によるところでもある。他のセレクトショップ等で検索してみても、ウールカシミアの棍棒でコートとなると優に3万は超えてくるし4、5万ということもザラにある。もちろんウールカシミアといっても恐らくピンキリなわけだからそれだけで優れているというわけではないにしても、2万円アンダーでこの素材を存分に楽しめるというのは他にはなさそうだ。本当はそれぞれ店舗に行って比較してもみたかったが、そんな気力もないのでネットで注文した。
見た目のツラ感、光沢感は今までの物と比べてみてもやはり高級素材というのが分かる。そして手触りが頗る良い。頬をスリスリしたくなるような肌触り。コートやスーツというのはシルエットやデザインが限られているからこそ、素材の違いが見た目を大きく左右する。まぁいっても遠くから見たらそんなに変わらないかもしれないけど、久しぶりのコートの新調というのは気分も幾分新調される気がしてよろしい。防寒性はこれから着てみて確かめたいが、コート自体の厚さや重さは今までのものと変わらない、というか若干今までよりも薄く、軽いような気がする。これで防寒性は問題ないのだろうか、少し不安だが大正義ユニクロが機能面で不満に思った記憶がないので多分問題ないと思う。
ユニクロっていうのは世界に名だたる日本の代表的な企業の一つになっているけど、その実何が評価されているのかわからないことも多くあった。デザインがどうしても画一的になってしまうし、日本全国津々浦々に展開されているからこそ周りの人と被ることも多く、オシャレというのが周りとの差別化を本質としているということを鑑みるに、ユニクロというだけで没個性的でダサいとされるし、気持ちとしてもユニクロのアウターというのはどうも気分が上がらないというのも頷けることでもある。ただ機能性の追求であったり、素材感の品質などに関しては他の追従を許さない、エアリズムやヒートテックの下着産業に至っては世界的にみてもユニクロ一強といっても良いのではないだろうか。それを日本独自の伝統産業とする向きもある、というのは下着というのは元々着物文化があった日本ならではのものであって、ワイシャくを肌に直接身に纏う欧米の文化にはないものらしい。素材の追求に関しても、自然との調和や素材の良さを活かすという日本の文化が影響しているとかなんとか。一理あると思う。
満員電車に乗りこんで、人だかりの中に身を屈めながら時を過ごすときの心持ちを思い浮かべてみる。電車から降りて、大衆の動く方向に合わせて自分も周りに流されてあてもなく進むときの感覚。どこへ向かうのかもよく分からない中、とりあえず不特定多数のカオナシどもと歩を進めるときのあの感覚。どことなく僕は、安心感に似た、母親の母体の中に包まれたかのような安息感に満たされる。皆と同じことをしているというのに、それが心地良いということはどういうことなんだろう。
一方で、会社の上司から雑多な命令を下され、社員全員に同じ行動を強いてくるような時には、ひどく嫌悪感を感じる。その他大勢と同じことをやるということは、自分が周りと同じであることを承認することであり、他の人と同じであることを何よりも嫌う僕にとっては耐え難いものとなる。一同全員が会する会議で、一律に起立し、指示に従って皆同じように礼をするときのあのいたたまれなさをどう形容すればよいか分からない。だから僕は全員一律に挨拶を強制させることがどうしても出来ない。授業の中で、生徒への指示出し、つまり顔を上げさせたり、板書をさせたり、は講師として一つの重要なスキルだが、どうしてもこれを強制的に生徒へ命令することが出来ない。それが会社の中での自分の評価をそれなりに下げてしまっているということでもあるし、もちろん生徒にとっても何をすれば良いか分からず混同し、結局先生の言っていることが、分かりにくい、と満足感の低下につながってしまっているようなこともそれとなく承知をしているが。でも僕自身がすべてに一律に何かを命令されることをひどく嫌っていることからして、それを相手に強要することがどうしても、自分の信念(そんなに大層なものじゃない)に反すると言わねばならない。
にも関わらず、不特定多数のカオナシどもと同じようなことをするときに関しては、僕は心地よさを感じているという不思議さが頭の中に付き纏っている。同じことをするということは僕の中では嫌悪するべきことなのに、どうして大衆の中の匿名的な何かとして自我をなくすることが心地よさに繋がるんだろう。それは命令の有無が重要なのだろうか。確かにそうかもしれない。駅員に命令されてあちらこちらに向かわせるというのは、つまり人身事故の騒ぎで電車が動かなくなったとき、振替輸送で近接の路線を使わざるを得ないようなときには、同じような心地よさというものではなくなっている。というよりそれは、思考が停止しているか否かにあるのではないだろうか。思考停止の中での行動は心地良く、思考を働かせるわづらわしさから逃れることができるから心地よいのではないか。よく分からないが、僕は大きな に入り込むことを不思議と求めているのかもしれない。
空欄の部分を埋めることが出来ない。言葉がうまく出てこない。頭の中には、感覚としてはそれを了解できているにも関わらず、言葉で紡ぎ出すことが出来ない。その空白を僕はどうやって、心の空白も含めて僕はどうやって埋めていけば良いのか、というのは自分自身がよくわかっているような気もするが、もちろんそれを実行する気力がないということもまた、僕自身がよく分かっている。言葉のあやだ。くだらないこと。
君の声も 好きな歌も 通じない言葉みたいに
それなりに届かずに 力尽きてしまっただろう
どこにもいないよう過去は 記憶の中で光って
空白を埋めるように 読まない本を買って眠る
yonige / 11月24日