正社員を辞めたとはいえ、契約社員のような形で同じような仕事を続けている。給料は下がるし、ボーナスももちろんない。不安定極まりないため、今後どうしようか迷っているところでもあるが、そのことについて考えることをやめる。気が滅入る気がする。
今の仕事は上手くいけば楽しいということとやりがいもまぁまぁ感じるということで、他の職に移ろうという決断がなかなかできないでいる。それにやっぱり頼まれたら断れないのがあるので、しばらく、とりあえず夏まではやることになっている。意志が弱くてどうしようもないと思う。自分が決めたことを徹頭徹尾貫ける人ってすごいなぁと思う。僕は手を替え品を替え、自分を騙しながら生きているということを考えるに、もう何もかもどうでも良くなってくる。何かしたいということそれ自体が時とともに消え去っていくから。お金もなくなるし周りとの差はつくばかりだし、この期に及んで、周りと比較していることは愚かだと思うけれど、自分の価値は他との比較においてのみ確立できるということだと思う。そういう自分に対して特に何も感じなくなっていくのが分かる。歳を取ってきたということでもあるし、自分にはもう若い頃のような熱意がないのかもしれないとも思う。どんどん憂鬱になる以外に道がなくなっていく。
ただこの職はどうしても午後からの勤務になるから僕みたいな主体性のかけらもない人間だと、昼夜が逆転して生活習慣が無茶苦茶になるので、あまり良くないと思う。仕事は嫌いじゃないけど生活リズムが悪いからどんどん悪いことが起こっていく、ような気がする。だから転職をしよう、と考えてみるのである。
実際に転職するのであれば、特に専門知識などがないので、一般的な営業職ということになる。今までの経験を活かすというよりかは、全く違う業種として。でももう30だしなぁ、それを考えただけで気が滅入ってくる。はぁ。
『キミトオク』というのは、凛として時雨の10年ぐらい前の曲。僕が浪人していた時に聞いていたもので、ギターのアルペジオが綺麗で哀愁漂う雰囲気が好きなんだ。「キミトオク」は、ダブルミーニング、というかトリプルミーニングで、「君遠く」「君と僕」「君と記憶」が重ねられているらしく、あえてカタカナで表記しているそう。他の曲は全部英語表記なので、この曲だけカタカナで浮いてしまっているけど、どうしても含みを持たせたいからカタカナにした、ということをどこかのインタビューで読んだ気がする。なるほどなぁ、と思った。
掛詞っていうのはカタカナ、というか平仮名の発明と共に発展した文化で、漢詩が主流の時代にはなかったんだ。なんでかっていうと掛詞は、漢字表記してしまうとダブルミーニングにならないから。平仮名(今回の例はカタカナだけど)だからこそ二つの意味が掛けられる訳で、漢字が主流の時代には必然的に掛詞は作られない。遣唐使が廃止されて国風文化や平仮名文化が興隆する平安中期に、日記文学や和歌の中で徐々に掛詞が用いられるようになった。奈良時代の万葉集にも和歌は五万とあるけど、そこにはダブルミーニングの掛詞って実はそんなに多くなかったんだ。漢字で文字を書いていた時代には意味を掛けるということをあまりやらなかったんだと思う。どうでもいい豆知識。