先日祖母が亡くなってお葬式があった。90を超えていたのでそろそろ、というのは覚悟していたけれど、実際に亡骸を自分の目で見てしまうと、これまでの事が思い出されて、悲しみが込み上げてきた。涙は出てこなかった。以前、母親方の祖母が亡くなった時、それは僕が大学4年だったからもう6、7年前だと思うけど、その時も涙は出てこなかった。ある程度の覚悟があったからなのか、それとも本当はそんなに悲しくなかったからなのかは、よく分からない。
しばらく涙を流していないことに気付く。いつから僕の涙は枯れてしまったのだろう。なんかこんな事を言うと感情を失ったロボットみたいで嫌だから弁明しておくと、日々の生活で感情の起伏はもちろんあるし、イライラすることや腹が立つこと、くだらないことに笑ったり、もちろん映画を見て感動することなども、普通の人と同じように感じている。でも突発的に涙が溢れ出すと言うようなことは少なくなった。昔はそれなりにあったのだから、子供の頃や大学の頃など、何かが僕を変えてしまったのかな、と思う。自分の感情がありのままに表現、表出できていないこと、とても残念に思うし、悲しい。そしてその悲しみから、涙は出てこない。
いつ頃からか、自分の感情に蓋をするような癖がついてしまった気がする。蓋をしたくはないのに、周りの目を気にしているからか、蓋をしてしまう、というのかな。常に感情を頭と、体と?、切り離して、それを上から俯瞰するような態度を取っている気がする。理性的でかっこよく見えるかもしれないし、理性的な人に見られたいから、そういう風に感情を抑えているのかもしれない。でも感情を失ってしまったみたいで、僕は悲しい。どうしてお葬式の場で涙が出ないのかと言われれば、そこには他人からの目を気にしているのだと思う。それに、なんだろう、悲しみそのものから目を背けているような気がする。悲しみそれ自体に身を委ねるのが怖いから、目を背けて蓋をしているせいで、悲しみが溢れ出てこないようになっている。奥へ奥へ押しやって、僕は何も問題ない、というように理性的に振る舞っているんだけど、その実はただ悲しみに蓋をしているだけで、何も理性的ではなくって、感情的なんだと思う。
じゃあ素直に感情的になればいいじゃないって、思うんだけど、それは難しい、なんでだか。多分、悲しみが怖いんだ、僕は悲しみに暮れるのが怖いんだよ。悲しみって悲しみだから。辛いことしかない。でもそこに目を当てなければ、ないことと同じだから。ないものとして扱うんだ。状況によっては、悲しみを受け止めないと前に進めないってあると思うけど、そうじゃないから、蓋をする。それもまた、社会のせいにしたくなってくるね。僕のせいだよ、はい。
亡くなった祖母は、昭和の初め(多分1930年くらい)に生まれて、戦後すぐに横浜に出て小学校の教員をやっていたそう。尋常小学校を出てから、今でいう中学校の、高等女学校に行っていたと聞いた事がある。調べたら戦前の高等女学校進学率は25%程度ということだから、それなりに裕福の家庭だったか、優秀な学生だったかだと思うけど、そこを出てからそのまま教員見習いのような形で教えることになったとかいう話。戦後はどこも人材不足だけど子供は増える一方だから、そのような形になったのだろう。教員としての初任給で日傘?を買ったらそれで給料全部使い切ってしまったとか言っていたので、まぁ時代が違うんだなぁという事を思った。戦争の時は地方の山村で疎開をしていたという事だったと思うから、そこまで直接的な何か影響を受けたとは聞いたことはないけど、戦争については忌々しい悪の権化みたいなものだと聞かされたような気がする。生まれから考えるに、小学校の頃に太平洋戦争が始まって、女学校の頃に戦争が終わっている訳だから、幼い記憶が戦争で黒く塗りつぶされてしまったのだろうということは想像がつく。でも戦後の日本の復興を支えて、子どもを産んで、孫を儲けて、それなりに良い人生だったんじゃないか、と思う、抽象的な外観だけ見れば、だけど。
昭和の生まれということもあって、雅な趣味をいくつも持っていた。手に職をつけているというのかな、古典的な遊びが達者だった、そしてそれが教養であり、ステータスの一つになっていたのかな、と思う。元気だった頃は、毎年のように年賀状を送ってきていて、そこには手書きの絵と達筆な文章が添えられていた、内容も実に祖母らしい、世話焼きな性格が分かる、良い内容だった。それをみんなは嫌がっていて、いつまでこんな古いものにこだわっているんだろうって、いうこともあったと思うけど、僕にはそれが羨ましかった。祖父は趣味で水墨画を習っていて(しかも定年後の60から始めたということだった)、実に立派な絵が僕の実家にも飾ってある。玄関の一番目に入るところに飾ってあるけれど、葛飾北斎のものだと言われても多分分からない、くらいに上手い。
そこから何を受け取るのか、だと思うけど、今日の僕にそれを考える気力がない。