ふと思うこと。
僕らが享受する幸福や、そしてその反対の、不幸というようなものは、おおよそのところ、すべて一定なのではないだろうか。
良い思いをすることもあるし、苦しい思いをすることもまた、必然である。
それらを人間が小手先の技術でこねくり回そうと、結局のところ、その総量というのはおおよそイーブンなのではないか。

「必然の変容」という言葉を誰かが使っていた。哲学者だか思想家だか、経済学者ではなかったと思う。
僕ら人間は、動物と違って、必然性を変えることができる。「お腹が空く、ご飯を食べる、寝る」という動物にとっての必然を、理性によって変容することが、つまり「ご飯を我慢する、ご飯を食べない、寝ない」といった形で。もちろんこの程度であれば犬や猫にでも容易いけれど、「ご飯を飢饉に備えて蓄えておく、貧者に分配する」などは人間にしかできない。僕らは本能の必然に支配されることがなく、変容することが可能だ。
それらを突き詰めていくとこういうことになる。「僕らの不幸を理性によってなるべく減らすことができ、そして僕らの幸福を最大化することにつながる」
自由や平等、愛や平和、貧困や格差の解消、僕らはあらゆる不幸を消し去ることができる。もちろんすべてではないにしろ、多くの不幸を減らすことができる。僕が飢餓に苦しまないし、憲法九条によって戦争は起こらない、法のもとに平等で、なおかつ自由に経済活動をも行うことができているのはいうまでもない。絶対的貧困率は、前近代と比較すれば圧倒的に下がっている。近代化によって、魔術からの解放、社会的抑圧からの解放、貧困からの解放、3つの解放が促されたのは、理性による「必然の変容」あってこそである。
しかしそれは物事の一側面に過ぎない。コインの表側しか見ていない。これは僕の感覚的了解に過ぎないので数値で示すことはできない、ただ僕の感覚的知覚として、そうはならないということ。生きることは同時に苦しむということであり、苦しみがあるから喜びがあり、それらは常にイーブンなのだ。

必然は変容するだけであって、消し去ることはできない。姿形を変えて僕らの影が背後から追いかけてくる。目の前に敵は見当たらない、でも後ろから影が追いかけてくる。敵が影になった。より見えづらくなった。あるいは影ですらないかもしれない。僕らの心の奥底に巣食っているだけかもしれない。でもそこには確実に存在する。必然は変容に過ぎないのだから。
どうも西洋はこの観点が抜け落ちている。自由を自由のまま享受できると思っている。自由は抽象概念であって現実ではない。自由の裏には常に責任があり、自我の苦しみが伴う、平等にだって、愛や平和にだってそこには負の側面が常に顔をのぞかせている。ありとあらゆる抽象的概念は具体性を失い、影の側面を覆い隠している。生きるとは苦しむことであるという本質を忘れ去っている。
近代化の負の側面、自然の破壊・生物多様性の撹乱、共同体の破壊・文化の退廃、精神の破壊・人間性の喪失、僕らは近代化の代償として多くの負の側面を受け取りつつある。しかしそれらは当然の帰結である。3つの解放を推し進めたところで、常に3つの破壊が待ち受けている。必然の変容は変容に過ぎない、何らかの形で、そしてより見えにくい形で、不幸を受け止めなければならない。苦しいのは、それがより見えにくい形に変容していることである。
貧困は大きな問題とならなくなった、でも形を変えて僕らを蝕む。山火事が起きる、自然生態系が失われる。
自由や平等、人権を脅かされることは無くなった。でも形を変えて、僕らは誰かの人権を奪う。インターネットの誹謗中傷、性加害。
神を信じなくなった、神の奴隷になる必要は無くなった。でも僕らは生きる意味を知らない、あるいは科学の奴隷になっているに過ぎない。科学は意味を知らない。知っているのは死の恐怖とそして無の恐ろしさ。
すべてはイーブンだ。純粋無垢な幸福というものは存在しない。

タイトルは灰野敬二の曲から。言い得て妙。