
ナイフと拳銃が頭の中を行ったり来たりしている。僕は拳銃を持って何がしかにぶっ放す。どんな拳銃を持っているか、ぶっ放してる相手がどういう人物かはここでは大きな問題ではなく、とにかく盛大にぶっ放す、打ち上げ花火みたいに多くの人が見物する場所で、どでかい花火を打ち上げることに意味がある。そんな夢、なのか妄想なのか幻想なのか、不確かなイメージが頭の中を駆け巡る。
あるいは刃渡りが長いナイフを、いやそれは日本刀のように細長い形をしているかもしれない、それを大きく振りかぶって、豪速球を投げるみたいにぶちまける。大衆ひしめく野球グラウンドで、大歓声が鳴り止まない、そこで僕は鋭く研ぎ澄まされた日本刀を両手で持って振りかざす。敵がどのようなものか分からない、血も流れない、悲鳴も聞こえてこない、ただ大きなナタを大胆に大衆の面前で振り落とすに過ぎない。しかしそこに大きな意味がある。それを求めているし、求められている。
ぶっ放すまでの過程については事細かく描写される、どの角度で刀を持ち、振り上げると同時に風を切る音が耳を掠め、大観衆の声援がどっと聞こえてくる。次の瞬間にはそれをものすごい勢いで振り落とし、何者かに突き刺す。でもその後の記憶はない、誰かが苦しむ様子も、血が流れる様子も、大観衆の悲鳴もまた、感じられない。とにかくその振り落とすプロセスそのものが僕を突き動かす。
その妄想、イメージ、残像は何を表しているのか、僕はよく知れない。でも多分夢分析をすれば何がしかの事実が明らかとなろう。ナイフや拳銃は男性性の象徴ということであって、君は男性性の解放を強く望んでいる、女性性に支配される自分を快く思っておらず、その反動として心の中で男性的なる自分が解放を求めているということ、そういうつまらない分析はもうたくさんだ。
僕は男性的なるものに強く惹かれ、執着しているきらいがある。女性的な自分がどうしても気に食わない、そして男性的なる自分が心の影で顔をのぞかせていながらも、全面に這い出てこないことをとても残念に思う。それは僕自身の性格、僕自身の家庭環境、いや先祖から受け取る歴史的宿命、憎むべき社会環境、はたまた固定化した日本社会の歴史的副産物、もろもろに起因しているかも知れないけれど、自分は男らしくあらねばならないと感じながら、女々しくあるということがどうしてもいたたまれない形容しがたい心苦しさを感じる。
最新研究によると、「”本物の男”について厳格でヘテロノーマティブ(異性愛規範)な考えを持つ男性はそうでない男性に比べ、他者に対して暴力を振るいがちで、うつや自殺願望を抱えている確率が2倍高い」ことが分かった。(https://www.businessinsider.jp/post-218097)
いつぞやに凛として時雨がMステで新曲を披露するというとき、歌詞が物騒すぎるということで変更を余儀なくされたのを思い出した。当時はイスラム国が世間を震撼させて、一人乗り込んで取材をしていた邦人が捕えられて、非業の死を遂げた。「血だらけの自由」「諸刃のナイフ」が「幻の自由」「諸刃のフェイク」に変更させられた。それらは比喩表現であって、男性性の象徴であって、物騒な現実の世界と結びつける必要はないのに、意味のないことだと思った。アーティストの尊厳を踏み躙る行為だと思う。メタファーをぶっ放せ。(https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1501/24/news020.html)