2025/10/12 日記

1時に起きた。寝過ぎたと思った。でも昨日寝たのは4時くらいだから、まぁ寝過ぎか。

雨音がしとしと聞こえてきて、外気の冷たさが昨日よりも一層感じられた。フリースの上着をクローゼットの奥から引っ張り出して羽織った。パンツはユニクロCのスエットパンツ。履きやすいので寝巻きとしても使っているし、そのまま外出する時も寝巻きな感じが出ないので重宝している。表面はコットン生地で程よくハリがあって光沢感もあって、でも寝巻きとしても使えるくらいしなやかな素材。丈がわりと長めなのでドローコードで締めておかないと下にずり落ちて裾をずる事になるので、トイレに行くごとにちゃんと締めないといけないというのがちょっとめんどくさいけれど、あとは実に満足度が高い。色味も絶妙なダークブラウンで安っぽくないし、シルエットがワイドでストンと落ちるような形をしているから、ユニクロ見えがしないというか、ぱっと見ブランドものにも見えなくもない。そしてもちろん安い。

夜から授業があるのでその予習をしておいた。去年やった内容なので覚えているかと思ったけれど、ノー勉で解説ができるほど頭の出来が良くないので現代語訳と見比べて怪しいところをさらっておいた。スタンダードレベルのクラスではセンター試験の過去問で、西行上人の教えを書き留めた「西行上人談妙」からの出題。「歌を極めようと思えば、常日頃から歌のことを心に留めておかなければならない。かつての侍従大納言は、蹴鞠の達人であったが、彼は1000日ずっと鞠を蹴り続けていた。雨の日も大極殿で、病気の時も足に鞠をあてがいながら。歌の道もそのようであるべし」とざっとそんな内容だった。

この時期は受験生となれば、模試の結果もさることながら、過去問演習に勤しむ時期なのだが、大抵自主的に過去問を進める人はいないから、毎週この大学の過去問を行うようにと指示して次の週に出来ぐあいを確認する。第一志望だとまだ50%くらいしか出来ないのであるが、それで終わらずに原因分析と解決策をなんとか提示するようにする。人数が多いクラスだとすべて見切れないので途中で諦めるのだけれど、ハイレベルのクラスは6人しかいないので一人一人進捗を確認して次の課題も出した。言われたことは忠実にやってくるものが多いので、こちらも適切に指示が出せるようにするけれど、本当にこれで偏差値が上がるのかどうかよく分からなくなる時もある。ある程度までは適切な指示が出せるように準備したり計画を立てたりはするのだけれど、根本的な頭の回転の速さだったり、読解力というか、脳の情報処理能力を上げるというのはどうしても不可能に感じてしまって、結局中途半端なところで諦める。諦めてはいけないといいつつ、心は諦めてしまっているきらいがある。そもそもこの受験勉強にいったいどんな意味があるのか、という余計なことを考えているうちにますます力を入れて指導することの無意味さにぶち当たり、誠実に向き合うことを放棄する。あぁひどいもんだなと思う。

ハイレベルのクラスは「平治物語」の軍記物から頼朝が平家方に捉えられる場面。内容は「頼朝が捕まった時に、源氏に代々伝わる「髭切」という日本刀を取り巻きの女性たちが偽物を献上して難を逃れる」というもの。平家物語に似たような記述があったけれど、先祖代々の日本刀を大事に息子へ受け継いで、その精神的支柱のように扱うというのは少しく興味深い。それから「浜松中納言物語」から「中国の皇子に転生した父親を追って中国まで訪れる中納言」を描いたもの。父親が中国の皇子に転生するというのは突飛なストーリーであるが、輪廻転生の思想を表しているらしい。三島由紀夫が「豊饒の海」の中で同じような転生のテーマで小説を書いていた。輪廻は仏教的な思想だからヨーロッパにはない日本・東洋の独特な死生観をあらわすのであろうか。

もう一つ推薦対策の授業があって、指定校や公募・総合型選抜のために、小論文の添削や面接対策を行なった。これはすこぶる面白い、なぜかってその人の人となりや個性や人間的な魅力が一挙に表されるからだ。推薦というと学力のない人が学校の成績だけで大学に入学できるマイナスなイメージを持つ人がいて、まぁあながち否定することもできないけれど、その志望動機書や自己アピールというのは、偏差値には出ないその人ならではの個性が表現されていて僕は実に魅力に感じるものではある。画一的な情報処理能力を試す共通テストなどよりも、その人の内面を正当に評価する推薦の方に僕は未来を感じるのだが、いかんせん昔気質の古い受験信仰(学力信仰)によってそのようには動いていかないだろうとは思う。多分昔から中国の科挙があるように、中国から影響の受けた日本では学問のできる人が尊敬に値するのだと刷り込まれてきて、今でも学歴というものが社会に蔓延っているのを見るに、これからも当分その傾向は変わることがないだろうと思う。まぁ官僚や優秀な人材を見定めるというのは筆記試験に頼るで問題はないにしろ、すべての大学でそのような学力試験をやる意味があるのか疑問であり、そのせいで一般人の創造性が失われているということは、悲しい日本の定めという感じがしてならない。特別それに抗して変革をきたそうとは思わないし、そんな気力も体力も財力もないのだけれど、受験のせいで個性や才能や創造性が失われてしまった若者について、もちろん自分自身も含めて、実にあわれに、残念に思う。そしてそれを助長するような職に自分自身がついている。矛盾極まりない人生であろう。