大谷翔平が活躍すると母親との会話が増えるということに気づいた。今日もドジャースの試合を見ながら、母親と二言三言会話を交わした。やはり彼は偉大だ。
部屋の暖房をつけるようになった。かつては我慢できるまでは暖房も冷房も我慢するようにしていた。暑さ寒さに耐えられなくなって科学の力に頼るというのは人類の敗北だと思っていたから。でも実際エアコンを使っていても対して環境に負荷がかかるというわけでもないし、定期的に使用していた方がメンテナンスの観点からも良いらしい。そのせいか知らないけれど、僕らは我慢するということを知らなくなった。少しの不平や不満をコンプライアンスだなんだって、ネットに書き込むこともできるし快適に過ごせないからって電化製品を新調することもできるし、耐え忍ぶということから遠ざかっている。それで良いのだけれど、人間に本来備わる自然の力というものを信頼しなくなった。心の中に隠された人間が太古の昔から培ってきた逆境に耐えうる目覚ましい力を使わなくなった。

今日は島崎藤村の「春」を読んだ。彼の青年期とその身の回りの仲間たち、特に早くに亡くなった北村透谷についての事を描いているようだけれど、青年期のほとばしる若々しさが眩しいほど輝いていて、衰えかけている僕の若い血潮に呼応するような感じがした。こんな理想主義的な・ロマン主義的な物語を僕がもっと若いうちに読んでいたら僕は一体どうなっていただろう、もっと快活で溌剌なパワフルな人生を歩んで意はしなかっただろうか、と後悔の念に打たれなくもない。恋愛至上主義というのか、自分自身の命を投げ打ってでも女性のために尽くしていきたいという心持ちは人生を振り返ってみればなくはなかったけれども、そういった物語や小説に触れる機会が無かったからか、その思いを爆発させずに終わってしまったような気がする。今読んでも後の祭りという気がしてならないのは残念としか言いようもないものの、しかしその情熱的な恋愛観を持っている人がかつての日本に存在していて、そんな激情的な心を素直に表現しても良いんだというのはなんだか慰められるような気もした。僕らの時代は、というか僕の人生は、ともすると感情をいかに抑えてクールにそつなく人生を送るということが魅力的に映る時代であって、自分の感情をそのまま表現してありとあらゆる人らに迷惑をかか続けるというのは是としない時代なようである。それが別の時代と相対化して考えた時に、とても残念な時代のように感じる。僕はこの時代が無機質で味気ない冷たい石ころのようなものに感じてしまう。でも燃え盛るマグマのような時代もあったのだということは多少なりとも救いの手になるかもしれないな。
ロマン派の詩人や小説家の多くがキリスト教を信奉していたというのが少し興味深い。僕も一時期キリスト教の世界観に惹かれることもあったが、その時は、愛を信じていたし奇跡も信じていた。理想主義とキリスト教はセットのような気がした。一周回って僕には奇跡を信じる力も愛を信じる気力もないので、キリスト教の教義にもなんだか飽き飽きしてきた。その先に何があるのかと言えば何もない、雲が月明かりを覆っているだけで。
僕の青年期にかくある文学作品に触れる機会が無かったのはどうしてだろうと思った。日本の教育システムがいけないのだと思った。画一的な教育というのは、個性や自我や自己表現というものを抹消させるから。身近に文学作品に通じた師匠なるものが存在すれば、僕の人生は一風変わったものになったのではないか。そうはならなかったということに深い悲しみを感じるし、日本の古典文学というものの価値を蔑ろにしてきた日本教育には反吐が出ると言わないまでも、憤りを感じざるを得ない。僕はかつての自分のような若者に手を差し伸べられるような人になりたいと思った。しかし一介のちっぽけな塾講師として、何ができるのかは、定かではない。
