(この物語はフィクションです。)

曇りのち雨のち曇り。少し暖かい。朝起きて壁紙をまだ貼れていない箇所に貼っていったが、紙を切らしてしまったので中途半端なところで一時中断となってしまった。新しく同じ柄のものをネットで注文しなければならないが、まだしていない。
そういえばかの女君からはまだ返事が来ない。誰でも適当に友達を誘っておくように、と伝えたが、僕とあまり親しくない男たちまで誘っていたようで、急に雲行きが怪しくなってきた。僕は自分と気兼ねなく話してくれる人だとうまい具合に自分を曝け出すことができるのだけれど、そうでない場合は自分のことを認めてくれていないのだと思ってひどく遠慮して、品行方正なありきたりな自分を無理に作り出して相手に合わせるような会話をしてしまう。それによって僕自身も窮屈な堅苦しい思いをすることになるし、それが相手にも伝染してあまり打ち解けられずに気まずい雰囲気を周りに醸し出すようになってしまう。だからあまり親しくない人、特に僕よりも立場が高くて僕を認めてくれていないような人と同じ場所に会するというのはどちらにとっても良くない結果をもたらすことが多いのである。僕よりも立場が高いというのは具体的にいくつもあるけれど、概ね年齢が高いことが一つ、そしてもちろん学歴が高いことや年収が高いこと、名の知られている大企業に勤めているということも僕よりも立場が上だと考えるにあまりある。あとは容姿容貌が端正であるとかいうことも加わるであろうが、それにはどうやら自分のことを認めてくれているかどうかが重要であるらしい。というのも、容姿が整っていて僕よりも年収が高いであろうH先輩なんかには意外と気兼ねなく接することができている点を挙げてみても十分だろう。H先輩はステータスやスペックからいうと申し分ないものを持っているにも関わらず、自分の力を過信することなく高圧的にならず、そして僕の力をいくらか認めてくれている、あるいは特に興味がない、性質が備わっているために、僕も特に遠慮せずに話すことができるのであろうと思う。ということはスペック云々ということもあるのだけれど、僕のことを認めてくれるかどうかというのが大きなポイントになるのかもしれない。なんだか自分にひどく自信のない自己肯定感の低いつまらない人間になっているようで情けないやつだなと思う。
さて、だからこちらとしてはあまり親しくない人を誘われてしまうと僕の性質に合わずに堅苦しい思いをお互いしてしまうかもしれないために、なるべく不確定要素は減らして人を集めるべきなのだが(後になって気づいた)、そんな細かいことを気にしている小さい男だと思われたくなかったので、誰でも誘っていいよ、とおおらかで余裕のある男性を装ってしまったというのが諸悪の根源ということになる。それにその親しくない男たちというのが、ただ関わりが少なく距離があるということではなく、若干自分の苦い記憶とも結びついていて、彼らと会うことが弱い醜い自分と邂逅するようで、さらに会うのが億劫になってしまうというのがまたさらに情けない気がしてならない。もう自分が嫌になるので考えるのをやめて返信をするのもやめる。未読無視というのは悩み苦しんだ心の表れなのだ。
今日の仕事は授業ではなく進路面談。授業ほど準備することもないが、場合によってはその人の人生を大きく左右することになるので、慎重に対応しなければならない。ただ10月に一度、12月に一度ずつ面談してきたのでおおかた方向性は決まっているし、わざわざ休みを潰してまで行く必要があるのかと、若干いい加減な気持ちも加わってくる。
A君は上昇志向が強くMARCHにどうしても引っ掛けたいという少しギャンブルな受験戦略を取る。夏までサッカー部であってなかなか本腰を入れて勉強できなかったが、秋以降一気にアクセルを入れてメキメキ力をつけてきた。それもあって今回の模試では偏差値が55近く出ており、CHにはギリギリ届くかどうかという位置ではあるが、十分可能性はある。しかし受け方がいかにも向こう見ずな受け方(昭和の男らしくて嫌いではない)で、中央法政を5つ、明学を2つ、日東駒専を2つと滑り止めを1つと、少々危ない橋を渡りつつあるのが目に見える。MARCHを目指すギャンブルな受け方をするのは止めはしないが、まず絶対受かるという滑り止めを増やすということとMARCH全落ちも十分あるというリスクを承知の上であれば受けても良いと伝える。模試の結果から言ってもそこまで強気に出れる状況でもないので、概ねアドバイスには従ってくれた様子。ただ彼はいつか人生にしっぺ返しを喰らうことになると思う。
Bさんは小学校の先生になりたいという幸薄でおとなしめな女の子。今っぽい子というか活発でハキハキした感じがなく、どちらかというと無気力な表情が、よくいえばおっとりとしていて、悪くいうと何も考えずにその場しのぎで生きているというような印象を受ける(その性質が若干自分に近いかもしれないので愛着はある)。ただ滑り止めに関東学院の合格をすでに持ってきていたので見た目によらず意外と抜け目ない子だなと思った。小学校の先生といえば自分の祖母を思い浮かべざるをえないのだけれど、何をするにも自分がお世話をしてあげたいというような奉仕精神の塊みたいな人がやるイメージだったので、彼女にそんな大役が務まるのかどうかよくわからないが、ただそんな抜け目ないところを見せられてるともしかしたら僕が気付けないだけで、本人の心の底で考えていることはもっと多くあるのかもしれないと思った。肌が白すぎるので南国に行けばちょうど良くなると思った。
CさんはA君に似たとりあえずMARCHを目指すというこれまた一番ありがちな生徒の一人。性格は明るく活発で、いつも教室に入ると誰かと雑談をしていたり、授業中も頗る反応がよく、僕のつまらない冗談にも一人だけ大笑いしてくれたり、恋愛の話なんかすると特に目をキラキラさせながら聞いてくれる時がある。頭は切れるタイプではないけれど、思ったことをそのまま発言してくれるので、みんなに間違えて欲しいところで当てるとちょうどよく素直に間違えてくれるので授業を円滑に進める上でも欠かせない人材と言って良いかもしれない。やけに勘が良すぎると僕の言いたいことを先回りして答えてしまう生徒もいるけれど、素直に間違えてくれる天然な子の方が授業をうまく進めるにあたっても相応しいのである。容姿も明るく活発である性格を映し出すような顔をしていて、A高校らしく、高校生にしては化粧が少し濃い目でたまにまつ毛が3D映画みたいに飛び出して見える時がある。服装でよく目にするのは田舎のヤンキー気質なグレーのパーカーとワイドなスウェット、ぼってりした白スニーカー。冬なのにインナーにミニTを合わせておへそを少しチラ見せしながら、その上に茶色いモフモフのついた白いダウンを羽織っていることもあり平成ギャルみたいなところもある。まず前回の模試の結果を確認する。総合偏差は50ほどでMARCHには厳しい数字であるというのはすぐわかるけれども、2年生の頃からずっとMARCHを目指していたことは承知しているので、それとなく仄めかすにとどめす。受験校の確認に入る。だいたい進路面談はこちらが主導権を握って話を進めていくのだけれど、Cさんは性格がら自分の考えていることや迷っているところを矢継ぎ早に伝えてくるので話が早い。①法政・明学・明学・東洋の後の受験校をどの大学にするか、②滑り止めを神奈川にしようと思ったが日程が合わないのでどうすれば良いか。実にポイントが明快でどうアドバイスをすれば良いかわかりやすい。僕もこんなわかりやすい授業をしたいと思った。本当に沈んでいて迷える子羊状態になっている子は何が不安で何に迷っているのかがわからない状態になってしまうので、それらの方が一つ一つ話を解きほぐしながら問題を探っていかないとならないため、時間も労力もかかるから大変だ。その点Cさんは論理明快で聞きたいことがはっきりしていて合理的なので、こちらも合理的に率直に考えていることを述べていきたいと思う。本来進路面談は話しづらいことも話さなければならないので、特に志望校を変えたり行きたくもない滑り止めを追加するなどは相手もプライドも傷つけることにもなってしまうから、なるべく気に障らないように婉曲的に説明して納得してもらうというのが正攻法なのだけれど、今回のCさんの性格や話しぶり、その表情からも沈み込んでいるのではなくあくまで合理的な判断を求めているようなところから、率直にストレートに話すことに決める。そちらの方が相手も退屈しなくていいだろうし、いささかせっかちなところもあるから変に配慮して遠回しに言うよりも良いと思った。問題①については模試の結果から英語の偏差値が思わしくないので、せっかく取得した英検を存分に活用するべきだと伝える。特に日東駒専では専修大学が英検利用の代表的な大学なので、偏差値的にも実力相応校として申し分ないので、あとは学部とキャンパス、日程を鑑みて自分で選ぶように伝える。本人も英検利用については腑に落ちたらし表情をする。滑り止めについても偏差値からなるべく低いところを受けるように勧め、日程が合わなければ国士舘・東海・大東文化・桜美林・亜細亜などを提案。本人はその大学群を忘れないように受験シートに目を落として大雑把にメモを取る。滑り止めに関しては特にこだわりもないのか素直に増やすことに異論はない様子。問題①・②の改善点も鑑みてもう一度全体を見渡す。
「偏差値から言うと、少し挑戦校が多いイメージは拭えないかな」
僕は率直に伝える。その方が彼女にとっては伝わりやすいしそれで心が折れる性格ではない。
「正直私も明学に行きたい気持ちが強くって。英検利用もそうですけれど、実質ここが第一かなって」
「うんまぁそうだね、でも偏差値だけでは測れないところもあるから、うーん、過去問の具合はどうなの?」
過去問シートに記載されている数字を確認する。シートには大学・年度・科目と正答率が整理されて記載されている。ざっと見る感じで20問分くらいは書いてあるだろう。過去問をサボる生徒もいるが、この子は十分やっている。サボる子ではないのだ。
明学・2024年・国語・72%
明学・2024年・社会・68%
「おお明学はいい線いっているね。苦手な英語がない分これは十分可能性あるんじゃないかな」
褒められて表情が少しほころびる。
法政・2024年・英語・45%
法政・2023年・国語・52%
「法政はやっぱり過去問も厳しいか。英語も全然届かないねぇ」
率直に思ったことを伝える。相手がそれを求めているから。
「そうなんです、法政いくつかやってみたんですけど、出来なさすぎて、もうなんか、正直厳しいかなって」
「うーんそうねぇ、全体のバランスだと、そうだなぁ」
先ほどの明学第一志望という発言、過去問での発言、両者を合わせると結論はもう見えているに違いない。告白することは決まっているけれど背中を押してもらいためだけの恋愛相談なんて、よくあることじゃないか。
「例えば法政を別のところにチェンジしてみると、幅が広がっていいんじゃないかな」
幅が広がっていいんじゃないかな、という発言の論理が自分で言っていてよくわからなかった。
Cさんは受験シートを見ながら一息ため息を漏らしながら続ける。
「そうなんですよね、正直ここは(法政を指で示しながら)・・・」
その瞬間、きらびやかな水滴が火照った頬を伝っていくのが見えた。受験シートにずっと釘付けになっていたから、彼女の表情が少しずつ変化していたことに気づかなかった。泣いている?そして頬が赤くなっている?
思いもよらない反応に僕はあえて気づかないふりをしながら話を進める。
「うーん、そうだね。過去問を見てもやっぱりなかなか合格点に届かなかったり、それでどうしても一期一憂しちゃうというか、メンタル的にもキツくなってきちゃうのもあると思うんだよね。やってもやってもできないってなると重要なこの時期に勉強のやる気が出なくなっちゃう人も多いもんだから。そういう意味では、逆に可能性を広げるためにもそういう選択というのは悪くないんじゃないかなって思うね。それに日程的にも4連とかなるわけだから身体の負担を減らす意味でもね」
なるべく相手に目を向けずに受験シートを見ながら、長々意味のないことをくだくだと話し続ける。話している間、「逆に可能性を広げるためにも」、「身体への負担を減らす意味でも」という言葉が意味を成さずに宙に浮かんでるような気がした。長々話している途中に鼻水を啜る微かな音が教室の空間に響き渡っている。それでも僕はそれに気づいていないふりをするために一生懸命いろんな角度から受験シートを見つめる。
「そうですよね、確かにそう思います・・・」
涙で声色が少し震えながらそう言った。指で目の涙を拭き取ろうとするものの、かえってどんどん止めどなく流れてくる涙がきらりと光を放って見える。
潤んだ瞳、か弱い乙女心が露わになりかけているようで、固く結ばれた唇とまっすぐな黒い瞳(潤んだ瞳と両立している)は弱さを押し留めようと、相手に見られまいと必死になっているのがわかる。
この子は強い子だ、と思う。明るくておてんばで合理的で勝気で上昇志向があって、だからこそ見栄を張る。自分をやけに強く見せようとする。それがその瞳や唇、化粧のまつ毛や服装、その他諸々の仕草や表情にも表れているということと思う。しかしその強さは彼女の弱い乙女心の裏返しであって、自分自身の自信のなさを取り繕う弱さを表しているように感じざるを得ない。
最初に瞳から溢れた熱い一滴の涙、これは僕が見た涙の中でも一際美しい涙の一つだと思った。そして彼女の未来はこの涙によっていくつかの救いが用意されたと思った。
