晴れ。10時に起床しカフェに向かう。本日はスマホを家に置きデジタルデトックス(電子情報排出運動)を実践す。珈琲飲みタバコ呑み本読み、気分良好。トイレの時間が異様に長く感じらるるは排出運動のおかげなり。肛門から便出づる心地を全身で味わうなり。スマホ(電子板)見し時は情報に毒されて感覚を抹消せり。スマホ以前の忘れし感覚思い出したり。電車で港南台へ向かう。電車中で電子板見し人を嘲笑うなり。我電子板見し人を見る感覚を味わえり。バーズ喫煙所にてタバコを忠実に味わい、外の景色を存分に味わい尽くす。ここでも電子板見し喫煙者を嘲笑いぬ。彼らタバコの味と景色の味を知らぬなり。スマホの毒に侵されたるなり。うどん屋へ向かう。かけ小ととり天を頼む。アップルウォッチ(林檎時計)で支払いぬ。林檎時計は時計兼財布なれば電子情報にはあらざりけりと解釈せり。同じくかけうどんととり天を心ゆくまで味わいぬ。スマホ毒は混じらざりき。ユニクロ(独特呉服店)に赴きダウン(冬物羽織)を見物せしがその高価なるによりて値下げさるる日を心待ちにす。本屋に立ち寄りてぶらぶらと本を眺めつ。特に興味湧きし書物なければ突如尿意を催し厠(トイレ)へ向かい本日二度目の心地よさを得る。良きかな。あぁ良きかな、かくある日。
今年は良い年だったなぁと、すでに1年を終わらせにかかっているようでまだ1ヶ月残っているからここから怒涛のどんでん返しが起こらないこともないけれど、それにしたって道が開けたように感じることもあった。もちろん未だ道を進んではいないし行く先に何が待ち構えていようとは想像もつかない。しかし何も活路を見出せなかった時に比べれば大きな差異と言っても良いと思った。何をやっても上手くいかないしどれもこれも裏目に出るかのようなここ5、6年の生活で生きるということそのものに飽き飽きしていた日々を思い返すに、常に悶々と心の中にわだかまる感情のマグマのようなものがグッと封じ込められて、ついぞ日の光を浴びることがなかったように感じる。そのわだかまりがようやく解け出したのかなんなのか、外側に少しずつ顔を見せ始めた萌芽のようなものが今年は感ぜられた。しかしこのような感覚というのは今までにもいくつか見られたようなこともあるので普段ならない。道が開けたと思ったら急転直下の崖であったというのは数多記憶のあることであって、進んでみなければそれが正しき道であるかは分からない。ただ今までにはない充実感というものを心の奥底で感じ取ることができる。これは僕を騙しにかかっているのかどうなのかしれない、いつだって僕は人に女に感覚に騙されてきたのだから本当かどうかは分からない。でも理性を信じるよりも感性を信じたい、あぁしかしこの前もこの歓声に騙されたのは誰であったか!!!ふと苦い記憶が過ぎり猜疑心が頭を支配してやまない。。。これこそは僕の信じるべき最後の望みなのだと思ったものにしっぺ返しを食らったというのが記憶に新しい。。。だと言って何も信じないということができるのだろうか。かつては何かを信じないと生きていけないように感じていて、この人のためにこの理念のためにこの希望のためにと常に期待する未来を夢見て信じ抜こうと心に決めてきたしそれによって自分自身を鼓舞する元となったのはいうまでもなかろうが、でも今はどちらかといえば何かの夢や希望や理念や、もちろん愛するものさえないのだ。そしてそれがどういうわけか心にゆとりを与えて進むべき未来を心やすく導いてくれているように感じなくもない。あぁこの心やすさが間違いの元だったと後で答え合わせになるのやもしれぬがとにかく今までとは大きく異なる感覚であることはここに記しておく。
自らの弱き醜き性質から出る苦悩を、感覚を頼りに取り繕うことなくあらわに正直に表現するということを是としても良い。それがここ数ヶ月僕が思うに至った結論のようなものだった。いつまでも僕自身の弱さや醜さを正面から捉えようとせず逃げ隠れし、その一方で過大に自分を評価し、過大に要求することによって自らのありのままの姿を誇張した姿に変えて振る舞っていたことが何よりも諸悪の根源であった。