最後くらい本当のことを 言って欲しかったな
君の頭がいちごで できてるってこと
僕はいちご目当てで 近づいたんじゃない
日だまりのようにあたたかな 笑顔が好きだった
Serani Poji / さよならいちごちゃん
めっちゃ良い曲だなぁって思った。ポカーンとしてる僕の頭によく似合う。深い意味はよく分からないし読み取るつもりもないしそれでいんだ!「君の頭がいちごできてる」ってこと!そのままなんだ!
だいたいこういう曲は平成の初期に生まれてるんだ。昭和の後半か、平成の初期。文化的レベルが高かったから。今とは比較にならないぐらい文化水準が高かったんじゃないか?僕らの思考レベルを遥かに超越していたんじゃないか?スマホやアイパッドやエーアイやなんやかんやにすべての能力が吸い取られて当の人間自身が蝉の抜け殻みたいになってるんじゃないか?昭和の時代は良かった、平成の初期は良かった、あの頃は良かった、あぁあの頃はよかった。あぁあぁ、あの頃は、あの頃は、あの頃は。
僕は無精(ぶしょう)ヒゲと
髪をのばして 学生集会へも
時々出かけた 就職が決まって
髪を切ってきたとき もう若くないさと
君に言いわけしたね 君も見るだろうか
『いちご白書』を 二人だけのメモリー
どこかでもう一度
バンバン / いちご白書をもう一度
あぁそんな哀愁に浸って自己のやるせなさに酔いしれるようなことは弱い人間のやることだよ。哀愁の中に救いを求めようとするのはバカのやることだ。精神的に向上心のないものはバカだ、そして哀愁の中に救いを求めるような奴は、それ以上のバカだ。僕はそれ以上のバカにはなりたくないから別の場所に救いを求めるから、センチメンタルな気持ちになりたくない、感傷的な曲に浸って自己を歪めるようなことをしたくないのだけれどその実、夜な夜なタバコを燻らせて可憐な月を眺めることくらいしか・・・いやそれも自己憐憫が形を変えて表現されているに過ぎないのか・・・。

そうそう、僕みたいに蝉の抜け殻みたいな生活を続けていくと、あらゆることに無頓着になり興味を失い、無感動の虚無感だけに包まれていく。花粉症に過敏になっていくということだけが生きているということの実感を与えてくれるかのようでないか。その花粉症だって実のところ、僕自身の心の弱さを表しているということなのだろうし、何かにつけてアレルギー反応を起こして遠ざかろうとする哀れで醜い性格を映しているということを教えてくれる。そんなことに抗おうとするのはもうやめた、なるようになれ、僕は花粉症と共に生きる、と心を入れ替えたところでそれが収まることはないから、すべてがどうでもよくなっていく。巷では減税だの財務省解体だのフジテレビが潰れるだの騒がしい虫の声が、アブラゼミみたいにジリジリやかましいってことは僕の耳にはなんだか聞こえてるんだか聞こえていないんだか、聞く気にもなれないしよく分からない外国語のニュースが耳障りに流れてるみたいだね。3月9日が終わって3月10日になってあはれな趣深いと錯覚する日付からまた現実に巻き戻されて明日は原発のドッカンを思い出す11日だっていうのはそれもまた趣深いのかもしれないね、あれから14年経ってあらゆることが変化して僕も変化して何もかもが変化してるけど、原発建屋内部の放射線は如何にもこうにも変わってないんだろ?まぁそれはいいや、僕には特になんの関係もない話だから。あの震災以来全てのことが変わったっって、日本人の死生観や生き方そのものが変わったってある知識人たちが言ってたけど、僕は特に変わったという気はしていないしコロナによっても特に変わったとは思えない。ただ僕自身の弱さとか情けなさとか未熟さが顕になっただけであってね、本質的な変革を余儀なくされるということではなかったよ。

暇つぶしに「今日好きの卒業編」を見るにしたって、僕の天敵みたいなイッサとかいうギャグ線クソ寒野郎だけがそのちゃんとよろしくやっていて、僕の上位互換たるレオくんがどうしようもなく不運に見舞われて力を存分に発揮するところができていないというのがなんともやるせないよな。君も僕と同じように不運な人生を歩む運命になるのかと思うと不憫でならない、でも仕方ないさ、この世の中にはそういう宿命にあって影を纏うことで光をより美しく輝かせる月のような存在が一定数必要なのだよ。僕らは月のように、いや〜それはあまりにも誇張した表現だな、影のように、いや〜それも現実を歪めた言い方だ、つまり蝉の抜け殻みたいに生きていくのが定めなんだ。そう思うと蝉の抜け殻にもう少し愛着を持って接することもできる、レオくんを応援しような。
