『新幹線大爆破』という映像作品を見た。Netflixで配信されていて、日本だけでなく海外でもそれなりに人気らしいから、もちろんタイトルの過激さに釣られてでもあるし、ゴールデンウィークで暇だったからというのもあるかもしれないね。

内容は「新幹線で大爆発が起こる」という突飛なタイトルそのままで視聴者の目を惹きつけるダイナミックさもありながら、新幹線や車掌や乗客など我々に身近なものが多分に含まれるからあり得ないことがあり得そうに感じられるということであった。車内での言い合いやポッと出のチャラついたYouTuberがネットで生配信していたりとかどこにでもいそうな修学旅行生が同乗していたりとか、あとは運転士と本部の掛け合いでいつの時代もどの業界も、現場と上層部というのは噛み合わないものだなぁとリアルで面白く感じられた。でもその核の部分の、つまり犯人の心情や車掌の心の動きみたいなものにリアリティーがなくてがっかりした。車掌の振る舞いにしても、運転士の気概にしても、伝えたいことは分かるけれど、ありがちで通り一辺倒な動機や信念で埋め尽くされることになっていて、僕は特に引き込まれることはなかった。新幹線の大爆破というのはもちろんそれがメインなのだから爆発した瞬間のその迫力というのは目を見張るものがあるとしても、その迫力に人間の心が追いついてこないきらいがあった。技術ばかりが前を走っていて、人間の内面性が置いてけぼりというのかな、大爆破は手段であって目的ではないと思うのだけれど、爆発させることがメインで、それ以外の機微な心の動きをうまく捉えることができていないために、より心の空虚さを感じざるを得なかった。

うーんなんだろう、大爆破というくらいだから、新幹線の物質的な大爆発ということだけではなくして、人間の苦悩や憎悪やドロドロした暗い欲望が、まさしく爆発したということだと思うんだけど、なんだかリアリティーがなかったな、女子高生が犯人(ネタバレすいません)というのは悪くないんだけど、もっとその若々しい瑞々しい心が砕けて弾けてまさに大爆発せんとする揺れ動きみたいなものを描くべきだったと思う。まぁ商業主義に塗れた映像作品というのはいかにお金をかけたところで、そんなものだよね、と思う。批判ばかりで申し訳ないけれど。
一方でこの作品のオリジナル作品である1975年の同タイトルの映画を見てみて、主演はあの昭和のスター高倉健だったけど、個人的にはそちらの方が感動した。過去の作品ですでに世界的な評価を得られているから、そのように見えるのかもしれないんだけど、それにしても同じような内容なのにここまで引き込まれるというのはどうしてだろうと思った。映像的な精細さでいえば、現代の技術を駆使したものの方がはるかに優れているというのはすぐに分かるけど、映像の荒さが全く気にならないくらい引き込まれた。昭和へのノスタルジーみたいなものがあるのかな、それともすでに名声を得ている作品だからなのか、俳優の鬼気迫る演技がそう思わせるのか。でもストーリーに傷がないかといえばそれは間違いで、取ってつけたような喫茶店の爆破だったり、ありがちな犯人の動機というものは最新作と変わらないものであるから、全部が全部良しとするものではないことは確かではあるけど、でも2時間半という時間があっという間に感じられたということは事実である。

技術ばかりが先行していて、人間の発展性というものを感じないね。でもそれがリアルだよなぁ。確かに昨今の日本って、身の回りの物事は日に増してどんどん新しく移り変わって発展していくけど、その実、心はいつまで経っても乏しいまんまだね。僕もそうだし君もそう、映画ももちろんそうなってしまうんだろうな。とても遺憾という他ない。
〜余談〜
自分の人生について思うことがないわけではない。理想と現実が大きく乖離していることについて、考えが及ばないというわけではない。でもなるべく考えないように、気に留めないように、意識しないようにしているということ。それがなぜかといえば、それらの複雑に絡み合った問題に向き合いたくないから、そして向き合わなくてもある程度の生活は滞りなく過ごすことができるから。
人生を自分で切り開いていかなくてはならないという、過大な責務を自分自身で抱え込むということ、他者と関わり合うことを避けて、自分自身で解決していこうとするということ。
上手く言えない。どうも僕自身の消極性や繊細さのようなものがそうさせるというのは分かるのだけれど、だからといってその殻を破っていこうという気にもなれないし、他人の浅はかなアドバイスに従っていこうという気概もない。じゃあ何も変わっていけないけれどそれでいいのかと言われればまぁそれで良いのだろう。僕は僕の生き方で、生きていく、それでうまくいかないのであればうまくいかない人生であって、他人に干渉される筋合いはない。途方に暮れて死んでいくのであればそうなのだろう。
解決の糸口を手繰り寄せることができない。僕から手繰り寄せることをしていないし、勝手に現れてくることもないから。それで良いのかと言われればそれで良いのか。まだ若いから、っていう言い訳はもはや通用しない。人生のタイムリミットが刻一刻と近づいてきて、背後で死神の足音(死神のワルツ)が微かに近づいてくるのに気づいているし、でも僕の首を取りたければ取れば良いとも思っているし、でもこのまま死神の好きにさせたくないとも思っているし、矛盾した心のうちを言葉にすれば、思ったよりもそれが矛盾しているのだということにただ気付かされるだけだった。僕は人と違うことをしたくないと思いつつ人と同じことはしたくないと思っている性分だから、僕自身が矛盾の塊なのだと思う。人と違うことをしたくないと思いながら人と違う自分でありたいと思ってる。でもみんなそんなもんじゃないのか?分節志向性と無限志向性だよ。人間自身が元々矛盾の塊だから僕も矛盾しているの。

自分自身が矛盾の塊すぎて申し訳ないと思う。単純明快で筋の通ったことを書き留めたいと思ってるけど、どうもうまくいかないのが申し訳ないなと思う。僕は僕でりんごはりんごでありたいね、でも僕はリンゴでもあってりんごが僕でもあるんだ、これはどんな屁理屈まやかしだよって思うけれど、事実その通りだから何もいえない。単純な物事を複雑に伝えすぎているきらいがあるって?うんそうかもしれないなぁ、物事はもっと単純かもしれないけど、あぁ言葉にするとすべてが複雑に伝えられる。
話題が飛び飛びで申し訳ない、主題が明確にならないな、テーマが飛んで回って舞い上がっては、消えていくのさ。掴み取ることができない、それもまた屁理屈で、言葉のあや、言葉遊びで、ただのレトリック。いつか見かねた神が僕のことを攫っていくに違いないね。でもそうなったらそうなったまでだと思う。こんなあることないこと言い訳をこねくりまわしているようでは、生きている意味がないもの。神はどうして僕のようなものをこの世に遣わしたのかね。何か意味があってのことだろう?悩み苦しむため、でももう僕はそんな屁理屈に飽き飽きしてきたよ、これがのちに誰かのためになるのか僕のためになるかどうなんだろう。
人生がどんどん遠ざかっていくな、僕の人生が遠くに浮かんでいくのを肌で感じる。僕の心のうちにあるべきものが遠くに浮かんでいく。僕はそれを傍観して、ただ呆然と立ち尽くして見送っていくことしかできない。自らの手で掴み取れば良いって、そういうんだ、みんなそういんだ、僕もそう言ってるよ。生徒に対して言っている言葉がまさに自分自身へも突き刺さるブーメランみたいに感じるんだ。それを自分の手で掴み取ればいいんだ、ただ自分の手を掲げて掴み取ればそれで終わりだ、って。なぜ君はそれをやらない、君はできないんじゃない、君はやろうとしてないだけだ。どうしてやらないんだ、教えて、教えてよ、さぁ早く。