
最近の楽しみが超十代チャンネルとsejuチャンネルを見ることに尽きる気がしてきた。毎週水曜日と土曜日に更新されるのを心待ちにしながら日々の仕事と生活をこなしていく、消費していくようなイメージで。水曜と土曜の夜がメインの生きる楽しみであり、その他はそれに付随するただの付属物にすぎないというような、楽しみを浮き彫りにしてくれる引き立て役に過ぎないというか。でもその楽しみというものが人間の本来的な生きる喜びを感じさせてくれるような代物ではもちろんなくして、ただの現実逃避の安逸的な行為に過ぎないことを理解しているし、理解していながらそれに頼らざるを得ないということが情けないという他ない。人間の本来的な喜び、それは僕らにはもうとうに忘れ去られたしまった遠い遠い記憶、記憶の彼方に心の奥底に仕舞い込まれたしまった根源的な喜び。僕は何に喜びを感じるべきなんだろうか、そんなことももはやよく分からなくなってくる。楽をすること、早く家に帰ること、つまらない動画を見ること、ゲーム実況を見ること、眠ること、淡い幻想的な夢を見ること、妄想に耽ること、生きる喜びを感じているという夢を見ること。最近の自分の楽しみを列挙してみるに、それらがすべで横道を逸れたものであることに気づく。退職代行サービスが横行して、新卒がすぐに仕事を辞めて(まぁ僕もすぐに社員を辞めた)、その後に見出される喜びというのは一体何なのだろう、安逸的な現実逃避でしかないのではないか。彼らを(僕を)批判するということではなくて社会全体でそれらを要請しているということそのものの構造的な問題のように思うけれど、ともかくも安逸的な現実逃避的な行動に身を委ねざるを得ない社会というのが実に残念だ。場合によってはそれが、若くて瑞々しい純粋無垢な美しい身体を画面の上から眺め愛でるということに繋がる。もちろん生きる喜びというものは、見出せるはずもない。さらに捻じ曲がった場合には痴漢や盗撮ということになるのだろう。心の慰めにすぎない、ありもしない幻想的な世界に心を預けることでかりそめのエクスタシーを感じることの虚しさに至らざるを得ない。爺行為と何が違うんだろうと思う。さすれば僕らは本来的な喜びを探すべし、とは言ったものの、僕らにそれを思い起こす気力と体力がない。
時代の変革によって、性の意味するところが変わっていきてるという話を聞いた事がある。近代以前と近代以後、性によるエクスタシーというのは現実の雑多な物事から飛翔するための安逸な現実逃避の道具に過ぎないと。性というのは時代が進むにつれて本来とは違った意味合いを帯びていたんだって、古代や原始的世界では性による異性との結びつきは神とつながる神聖な行為であって、エクスタシーそのものは付属物に過ぎなかったって。まぁそうかもしれない、僕らはこの時代に生きてこの時代の空気を吸って、時代精神を背負って生きているから全く気づかないのかもしれないけど、現実の世界が捻じ曲がったものになっているから、それを補完するために性も捻じ曲げないといけなかったのだろうか。性が本来のあるべき姿を失っていく、そしてその上現代ではさらに形を変えて、見かけ上は健全に見えるアイドルへの盲目な傾倒への形を変える。どんどん僕は僕から遠ざかっていくのではあるが、それは社会的な要請でもあるというつまらない屁理屈も成り立つかもしれない。どうでも良くなった。

本来的な意味での生きる喜びということを考える必要がある。人間が本来持ち合わせていて自然に求めるところの喜び。自分の、というよりも神の呼び声に呼応する形での自己実現、僕のなすべき使命をまっとうするということによる喜び。なぜそれが現実のものとならないのか。この方向性で、この道に沿っていけばどうやらあるべき宝が見つかるだろうという見当はつくのだけれど、それを現実のものとする事ができない、僕の気力がないからなのか意思が弱いからなのか、社会のせいなのか、そもそも道が間違っているのか詳しいことはしれない。身の回りにはびこるありとあらゆるモノやコト、セイドというものが全て僕から遠ざかっていくから、人間疎外だか自己疎外だか名前はどうだって良いのだけれど、生産物と生産者の不一致が起こっているのであるのか、いやそれは資本主義の批判をしたいのではなくって、日本の、いやこの時代的な精神がそうさせているのだと思う。何でもかんでも批判するのはもうやめだ、僕が悪いからもう何だって良いよ。心の奥底に眠らせておく以外にないから、どんどん沈殿していって、どんどん埋もれていって、ついぞなかったことになるのだから。さようならをすればいいさ、それによって被害を被るのは誰だい?僕だ、でもいいんだ、僕だけがそうなるのであればそれで結構なのではないか、セルフネグレクトだね、でももういいんじゃないか。
やらないといけないことが山積みの中、何もせずに過ごしてただ時が過ぎ去っていくのも見送っていくしかできない。少しずつ歳をとってきて、顔周りのシワが増えているし、白髪の数が日に日に増していっているのだと思う。昨日美容院に行った時、ふと鏡で自分の顔を凝視して、思ったより老け込んでいることに気がついた。最近はあんまり年齢確認もされなくなったな、タバコ買ってもお酒買っても、まぁ当たり前なのだけどね。会社では後輩ができて、昨日も新卒の若い子と話したけど、相手から見ればもしかしたら幾分大人っぽく見えているのだろうか、目を伏せがちに話してきて、怯えた子猫みたいな話し方だった。最近の若者がそうなのかしれない、でも多分僕が人を寄せ付けないみたいなオーラを出しているのだろうな、まぁあまり話したくもないし、自分のテリトリーになるべく入ってきて欲しくないと思っているから、なんだか他の人と話すたびに自分のアイデンティティーや縄張りみたいなものが、ついぞ脅かされるのではないかと、ありもしない幻想に惑わされ続けているような気がする。未だに心の中の恐れと向き合いきれていなくて、他人を信頼することも、自分を信頼することもできずにいるということがもどかしい。もう少しまともな大人に、自分自身に折り合いをつけて、人を信頼できるような大人に、なってみたいものだね。
最近爪の色があまりよろしくないように思うんだ。あまり気にする人はいないかもしれないけれど、爪先の色合いは健康のバロメーターだから、白っぽくなってれば栄養不足、黒っぽくなってれば睡眠不足、血行不良。プロの漢方医の人からすれば爪の色や舌の状態を見れば大体の健康状態が分かるらしい、自分はそんなに詳しくないけど、たまに爪の色や舌の様子を確認する、舌のこともよく分からないけど、多分喉の奥がずっと炎症してるような気がする、治らないから放置してる。爪は最近になって黄色っぽく色が変色しているので、何かしら体に不調をきたすんじゃないかと思ってる、調べたらどうやら喫煙が原因らしいから、少し控えようと思う、もう遅いかもしれないけど、なるべく減らしたい、でも1日何本と決めるとおそらく挫折するから、なるべく減らすという消極的な目標にする、努力義務ほど愚かな指標はないのだけれど。

誕生日だからってハッピーなことがあるわけでもなしに、それでも何かしらのご加護を期待しているような節があるのではなかろうか。何もないのだよ、ありふれた日記、日常の一幕、奇跡は起こらないし革命も起こらない、残念だなぁ、反原発のデモに参加して社会をメタクタにしたいなんて思うことすら愚かに思うね、原発新設のニュースが昨日流れてたけど、正気かと思った、あの大惨事から日本人は何を学んだんだろう、原発建屋の大爆発、あの映像を高校の頃テレビからリアルタイムで見ていたけど、こんな技術人間には早すぎたんだって、それでもあれから15年経ってまた新しい原発を建てるってね、再稼働は分かる、勿体無いから、でも新設と言ったら訳が違うんじゃないか?どうせ原子力技術が安全保障的に必要だからとか言い出すんだろうな、なんのセンスもないと思う、君らには徹底的に生きるセンスというものが欠けているよね。合理的思考よりも重要なものがあるということにいつまでも気づかない奴らだな。人を愛するということに合理的な思考はいらないし、人を憎むのに合理的な思考はいらないから、合理性というのは一定の水準を超えるとついぞ役割を失う、当然のことだ。全然ニュースになっとらんし注目するメディアが少ないというのも呆れるな、こうやって社会がどんどん遠ざかっていくんだ、あぁもう怒る気力すらない、そんなものは血気盛んな若者に任せる、と言いたいところだけど、若者で原発反対のデモをやっている輩が一体どれぐらいいるんだろう。そもそも選択的夫婦別姓すら変更できない世の中だから、名前ひとつ変えられない世の中で、何を変えることができるのだろうね、失望を通り越して無常をすら感じる。何も変わらない、常ならぬ世の中、あぁ無常。追憶の彼方に生きる喜びを探す。