2025/5/4 心おくれとノスタルジー 〜白黒映画の鮮やかさに惹かれて〜

GW真っ只中でございますね。昨日仕事があって3日間お休み。たまには街に繰り出して散歩するのがよろしい。日中に重い腰を上げて街の喧騒に包まれながら、空を見上げてみたとき、思ったよりも太陽の陽が眩しいなと思った。僕の中ではまだ冬が明けて少し経ったくらいの春の初めあたりだと思い込んでいたけど、もちろん季節は日に日に変化しているのだった。こんな風に陽の光に照らされるのはいつぶりだろうな。別にずっと家にこもっていたわけではないのだけれど、何も考えずに日光に照らされるというのはしばらくしていないから。

せっかく久方ぶりに外を空気を吸って英気を養おうとしてみたものの、特に何もせずドトールでタバコを燻らせるだけだった。久しぶりに関内のレコードショップに行って気になっていたレコードを探してみたけど、特に欲しいものは見つからなかったな。ラナデルレイかレディオヘッドかあとはUS girlsあたりの好きなアルバムがあれば買ってたかもだけど、パッとみた感じだと見当たらなかった。レコードってくまなく探さないとお目当てのものが見つからないからほんとはあったかもしれないけど、血眼になって探すほどでもないのでやめた。ディスクユニオンは店舗によってジャズに力を入れているとかJ POPに力を入れてるとか色々で、関内の店舗はたぶん最近の洋楽のレコードがあんまり置いていないっぽいので少し残念。ホントに探すなら新宿の店舗に行けばいいんだけど、そこまでの気力と体力がない、でもそう思ってたら意外とこんなレコードあるんかみたいなもののあるから面白いね。もっと金持ちになって気力と体力が有り余るようになったら、レコードかき集めてコレクションにしたいなと、5年ぐらい前から思ってるけど、どのパズルのピースも揃わないようだった。高級なレコードプレーヤーとか探すと洒落なものも沢山あるから、聞く専用じゃなしに一つのインテリア見たいのものとして家に置きたいなと思ってるけど、それもまた上記の理由で断念している。まぁ嗜好品に過ぎないのでなくても困るものでもなしに、でもそれらが一つのステータス、つまり余裕のある男性の一つのステータスとして他人のコレクションを見ると羨ましくてたまらなくなるのである。まぁそんなことはいいや。

美味い飯を食いたいと思っているけど、あまりお腹が空いていないのでドトールに入ってミラノサンドAを頼んだ。ほんとは少しお高めのレストランで少し上品なハンバーグか何かを食べて、ちょっぴり贅沢な休日を過ごしたいのだけれど、気力と体力がない。もちろんお金もない。さっきと同じじゃないか。夢の中でよく「美味しいご飯を食べる」みたいな自分がいるんだけど、それってただ単にお腹が空いているということなのか、無意識的には上品な生活を欲しているけど、できないという心の表れなのか分からない。まぁたぶんただお腹が空いているだけなのだと思う。

前回の記事をもう一度読み返して少し修正を加えた。大雑把で拙い文章をそのまま載せているので、細かい修正を本当はした方がいいと思いつつその気力がないので後から加筆することもある。別に誰が読むわけでもない文章に後から手を加えていくというのは何も意味がないことのように感じられるし、本当に意味がないことなのだと思う。でもそれをするということは何某かの隠された意味があるって、さあ分からない。

今日はこのあとなにをしようか。特に予定もないので家に帰って映画でも見ようか。つまり昭和のノスタルジーを感じさせる珠玉名作一覧からいくつかピックアップしてみるのも一興だろう。高倉健が出てるのいくつかの作品に興味がある。

この前は『新幹線大爆破』と『幸福の黄色いハンカチ』を見てまぁまぁおもしろかった。どうして昭和の作品にここまで心踊らされるのか分からないし、それらは僕ら世代に欠けている何かを考えるきっかけになるかもしれない。『幸福の黄色いハンカチ』では北海道の各地域が舞台になっていて、夕張や小樽やら地名そのままロケ地になっているみたいだけど、その撮影自体はもちろん映画向けに撮影されたものでいくつか誇張されたもののようではあるにしても、どうやらその当時生きていた生活空間や過ごしていた人々のそのままの生き方が反映されているように感じた。いやこれは誇張されたものに過ぎないのかもしれないけど、山田洋次監督と武田鉄矢の対談かなんかで、当時の人々の生活をそのまま映し出したとか言っていたので、ある程度はありのままの生活だったと見ていいんじゃないかな。今や夕張とか小樽なんて寂れて人口減少地域の最たるものだと思うけど、当時はまだ炭鉱かなんかが産業として残っていたり、小樽は今でも漁業が盛んなのかな、とにかく人々の活気と豊かな生活空間がそのまま映画に映し出されている気がして、心が落ち着くような気がするのだ。「義理や人情の世界」というのかな、そういう人々の温かな往来や交流みたいなものが、あの時代にはもう戻れないというノスタルジーも含めて、僕には実に感慨深く感じられる。これはジブリ作品の『コクリコ坂から』にも感じたんだけど、あるいは『三丁目の夕日』とかにも重なるもの、そして巷でよく流れる『朝ドラ』とか戦後を題材にした『大河ドラマ』とかも、たぶん当時の「義理や人情」を、今は失われてしまったけど、本当は僕らに必要なもの・僕らが求めてやまないものとして、描いているような気がする。

なんだか自分が「気がする」という形でしか物事を語ることができないということが、とても稚拙に感じられる。そういえば会社の上司に「君は「気がする」という言葉が多すぎるから話が分かりにくいんだ」って怒られたことがあったな。確かにそうだなって思ったけど、意識的に変えるようなことはあえてしなかった。だって感覚的に直感的にしか物事を語ることができないんだからしょうがないじゃないか、でも感覚的に直感的にでしか語ることができないものもいくつかあるんじゃないのかな。すべてを分解して分析して首尾一貫した論理ほどつまらないものもないと思う。でもそれはケースバイケースというか時と場所を選ぶものだというのはそれはそう。