2025/5/5 呼びかけの謎けかけ 〜”その”心は?〜

“その”ちゃんが可愛過ぎて言葉が出なかったである。曲もええやん。相対性理論みたいなポップで軽快でラブリーな曲もかけるんだなぁ。「合法パンチ」の方向性も良かったけど、幅広く書けるというのは素晴らしいことだと思う。MVもなんだか”その”ちゃんありきになっていてアーティストとしてはどんな気持ちなんだか分からないけど、まぁこうやって実力のあるアーティストやタレントが世に広まっていくのは良いことだ。もっともこんなことしなくても良いものは自ずと広まっていって然るべきだと思うけれど。

今日は親戚の人が来て一緒にお墓参りに行った。GWで混雑しているというのに、千葉の遠方からはるばる車でやってきてご苦労なものだと思った、従兄弟は大学生と高校生で2人ともお忙しいということで、親2人だけで来てくれた。僕は行こうかどうか迷ったけど、というのも以前兄貴の結婚式の時にも顔を合わせたけど、いいも言われぬ気まずさを感じざるを得なかったからだ。まぁそれは僕自身のいかようにも形容詞がたい経歴や現状の居心地の悪さからくるものだと思うのだけど、いつも同じように逃げていても仕方あるまいし、朝早く起きることもできたので一応行くことにした。実に情けない心持ちである。いつもこうであるしこれからもこうであるのかと思うと、どうしようもないなと思う。

僕としてはなにを話すでもなく、親二人が抱える従兄弟たちの悩みをそれとなく聞いてアドバイスするだけにとどめた。相手方としても、僕の中途半端な現状を詰問するよりも、息子たちの様子を話した方が会話が弾むと解したのだろう、いつもいつも腫れ物を扱うかのように僕の本質的な話題に関してはそれとなく避けて会話をしてくれているということもまた、いたたまれない思いがする。まぁしょうがないじゃないか、それでつまらない議論しても良いけど、特に結論や行動が変わるわけでもないのだから。

どちらに転んでも僕としては良い思いがしないのはそれはそうなので、つまり本質的な話題で議論するということも、話題を避けて腫れ物のように大事に扱われるということも、結局いたたまれない思いがするので、まぁそういうことに対して我慢するのは慣れた。僕は自慢の息子ではないし、うまく行っていないことは僕自身よくわかってる、どんなことを思われているのか知らないけど、他人の目や忠告云々で生き方を変えても仕方がないから、考えるのをやめる。

すべてがどうでも良くなってくるけど、それでもまともな生き方をしていると取り繕おうとしてしまう自分自身にも嫌気がさす。寝癖を直した。ヒゲも剃った。昨日は洗顔で顔をちゃんと洗った。比較的真っ当なていを捏造するのだけれど、たぶん僕の出で立ちや表情から全てはわかっているのだというのは推察される。あぁ勘弁だね。

気まずい自分自身を紛らわすために、理論武装する必要がある!!難解な知的思索をするということ、その難解さに酔いしれるということ、そしてその難解さによって人をなるべく身の回りに寄せ付けないように仕向けるということ。僕自身の身の回りに起こっていることは表面的なものに・一過性的なものに過ぎず、他者が考えていることの数段上の物事・高尚な物事に思索を巡らしているということを以って、自分自身の現実的な弱さや敗者としての現実を打ち破っている、かのように見せることが大事だ。それは僕が生きるために、気まずさを紛らわすために必要なことだった。難解さというのは哲学的な要請というよりも、むしろ気まずさから自分自身を守る理論武装として存在している、僕にとっては。

カフェに行ってとびきり(!)難解な哲学書を開いて無意味に文字列を追っていった。パロールとエクチュールの違いについて理解した、エクチュールの複数性(散種というらしい)について理解した、言語の恣意性について再確認した(事物と言葉の恣意的な組み合わせ)、デリダの後期作品の不確かさについてはいささか辟易した(かつて読んだこともあったけど)。そして改めてポスト構造主義の目的を理解することができなかった、ハイデガーとデリダの違いについて、他者の単数性と他者の複数性の違いだということの意味がよく分からなかった、他者からの呼びかけが具体的に何を表していて、他者の呼びかけが単数・複数ということが具体的に何を表しているのか不明だった、他者の複数性というものが郵便的であるらしい。手紙を送ってそれが確かに到着するかどうか分からないという不可能性みたいなものが他者の複数性を担保するとかいう話だった。LGBTという多様性の原理も多分ポスト構造主義からきているのだと解釈しているけれど、他者の複数性や郵便制度の話がどうしてジェンダーの話につながるのかさっぱり分からなかった、脱構築という言葉だけを表面的にさらっておけばそれで良いのかというとそうではないらしいけど、厳密に理解しようとすると何も分からなくなった。パロールとエクチュールという言葉の響きだけが頭に残った。

それでも僕の心は満たされる。というのは人々が考えもしないような高尚な議論に僕も参加しているということ、名だたる哲学者のテーブルに僕も厳かな顔をしながら居合わせているということ、それ自体が僕の心を癒す。内容はどうだって良いのである。ポスト構造主義の目的、ハイデガーとデリダの違い、呼びかけの性質を巡る謎かけみたいな議論、それらに触れているということ、他の人とは違う思考に触れているということ、それが僕を僕たらしめるように感じる。もちろんその内容は全く分からないが、”その”謎かけの心はよく分かっている。