
今年で31になって思うことの一つとしては、もう自分自身の殻にこもって自己を保つということが苦しいということ。それは他人の目から見ていかにも滑稽に見えるだろうということもそうだけど、僕自身そろそろもう疲れたということかもしれない。いつまでも突っ張り続けることはできないし、心の奥底にきらりと光る淡い閃光のようなものがあるのかというと別にそういうわけでもないのだから、そんでもって僕自身は一応結婚とか子供とかそういう一般的な幸せというものに多少なりとも興味惹かれるところがあるので、こんなつまらない生活をしているくらいなら、みすぼらしい衣を脱ぎ捨てて、社会の歯車として生きること、生命の繋がりの一つのかけらとして生きるということを受け入れるのが良いのではないかという気もしてくる。生命の繋がりの一つのかけらというのは、僕自身の自我や個性の発露として生きるのではなく、先祖からの生命の繋がりを受け渡すという中継ぎとしての生き方というもので、いまいち自分には魅力を感じられない生き方、つまり生きる意味は次の世代に遺伝子を受け渡すだけというのはいささか消極的な存在理由な気がしてならないからで、でもともあれ僕の生きる時間もそう長くはないという(別に病気とかではなくいつ死ぬかしれないけど20代とは違う)ことから考えて、そろそろ僕自身が何者でもない存在だということを引き受けるべきなのではないかと思った。屁理屈にも程があると思う、言葉をただの言い訳の道具にしか使っていないと思う。でももう僕を保つにはこういう詭弁をそこかしこに拵えるしかないのだろう、社会の中で自我の発露を実現できる人というのはそういうもどかしさみたいなものはないので僕みたいな稚拙な文字の羅列を書く必要がないというのを羨ましく思う。僕もこんなみみっちい文章なんて書きたくないし、もっと多くの人に認めてもらい、多くの人の役に立ちたいと切に願っているというのは僕の思い込みなのかしれないけど、どうしても日々の仕事や生活の中で自分の思うままに発言したり行動できたりができないということが溜まり溜まって、こんな形で無意味に表出されていくのだ。そのくせ多少社会に順応することもできるから、文章に心血を注いでそれを仕事にしなければ生きていけないというほど、アーティスチックではないのが玉に傷というものだな。
だって安定・裏技・一夜漬け
甘い蜜には罠がある いやっ!
眠くなったら寝る お昼過ぎに起きる
遊びたくて遊ぶ お腹減ったらご飯を食べる
嬉しかったら笑う 悲しかったら泣いてもいいじゃない
明日のわたしのために今日もなんとか頑張るのさ
明日もう頑張らなくていいように頑張るのさ
「だって安定・裏技・一夜漬け 甘い蜜には罠がある」って良い詞だなぁと思いました。裏技や一夜漬けには罠があるっていうのはわかるんだけど、つまり裏技なんてしても自分の力にはならないし一夜漬けというのもその場限りの知識であって定着は全くしないよねということで、でも安定って安定じゃないの?甘い蜜は甘い蜜じゃないの?って思うけど実はそうではなくて何かしらの罠が隠れているはずなんだよ、苦と楽はセットだから、善と悪はセットだから、ハッピーセットはハッピーセットじゃないのだから。ということはとどのつまり不安定には一筋の光が内包されていて、良薬は口に苦しであるということなのだと思った。僕のこのつまらない屁理屈にも真理が散りばめられているのだな。
先日は大学時代の先輩の結婚式があって久しぶりに(と言っても1年ぶりくらいだけど)、大学の旧友たちと歓談して英気が養われた気がした。それにしても結婚式というのは何度経験しても、相手がよく知らない女性だったとしても、心にグッとこみ上げてくるものがあるなぁと思った。先輩の人となりというのは大学の時の関係性からよく知っているふうに感じたけれど、改めて幼少期から中学高校大学社会人まで一つのストーリーとして、そして思い出の写真とともにスクリーン映し出されているのを見ると、色んな思いがあって今まで人生を歩んできたのだということがよく分かる。僕が関わっていたのはそんな長い長編ドラマの1コマでしかないのだけれど、その人のことをよくわかった気になってしまっているというのは愚かなことだね。相手の女性は大学が同じということだけど、在学中に知り合ったということではなくって、社会人になってからマッチングアプリで関係が始まったということだった。3年前の6月に初めてのデートがあって、3回目のデートで告白をして交際をスタートさせたらしい。僕がプロポーズをするならどこでどんな言葉で表すんだろうなぁって形而上学的なありもしない空理空論に頭を巡らした。誓いのキッスは恥ずかしいから遠慮させてもらうよ。
先輩Aさんはサークルの時に知り合ってから随分お世話になっていて大学の時の自分の生き方の指針になっていた、というのは言い過ぎかもしれないけどAさんみたいに尊敬されるカッコイイ大学生でありたいと思ってた。何が尊敬できたかって色々あるのだけれど、もちろんルックスが良くてスタイルが良くて(多分君らの想像の十倍くらいかっこいい)、野球が上手いし頭もいいというのはそうなのだけれど、僕としては先輩の物事に対する真っ直ぐさやひたむきさというものが僕の心を打ったのだった。ある試合で負けてしまった時に、彼は涙を流して悔しさを露わにしていた、大学のサークルというのは大体においてたかがサークルであっておじさんたちが暇つぶしでやるような草野球みたいなところがあるのだけれど、それでもそんなたかがサークルに真剣に取り組んでいるということの証左の涙だとしれたし、それにその涙というのは多分勝ち負けに対することだけではなくって、相手チームのスポーツマンシップにかける言動やヤジに対してのことも含まれていたと思う。負けた日の反省会の時に涙を流しながらあんなリスペクトを知らないチームに負けたのが悔しいって言ってたのがとても印象的だったし、僕はその時この人について行きたいって思った。僕にはそういったひたむきさがいつでも欠けているし今だって忘れかけていると思う。そういう生き方に憧れる、自分が損するとか得をするとかいう価値観ではなく、その物事に対して、生きるということに対してだって、常に誠実でひたむきに純真さを忘れず健気に取り組むということ。

生きる中において僕は、「健気に、ひたむきに、真っ直ぐ生きる」ということが何よりも大事なことだと思ってる。それは地位や名誉やお金とか、自分がいかに得をするかという態度ではなくって、自分が得をするとかよく思われるとかそういう次元を超えて、その物事に対して、誰よりも健気でひたむきに接するという態度のことだ。そういう人が報われる社会であってほしいし、僕自身もそのようでありたい。そんなひたむきさが社会の歯車として生きる従順さに形が変わって社会に利用されて権力者やエゴイストに翻弄されている日本の現状には、反吐がでる。彼らのひたむきさや純真さやお前らの至福をこやすためにあるのでは決してない。でも純真さというのはその根っこから利用されうるという危うさも初めから含んでいるような気がする。いや、だからこそなのだ、危うさの影、危うさの影が光らせるのだから!