2025/8/19 たなびく陽炎に透かされて

救いようのない陽射しがアスファルトを照らす。アスファルトが僕に向けて照り返す。それは陽射しの明かりだけではなく容赦のない熱気も合わせて込み上げてくる。夏の暑さにはもう慣れっこだけれど、猛暑日となるとやはり身体に堪える。照り輝く日光が熱いだけなら良いが、猛暑日になると暑苦しい熱気にも包まれる気がする。首にマフラーでも巻いているかのごとく、息苦しさが付き纏って仕方ない。でも家を出ないと仕方がないから、トボトボ脚を運ばせては、そこらのカフェで羽を休ませる。夏のカフェ代だけでもバカにならない気がする。そのうえ家に帰る途中でまたコンビニに寄ってレッドブルで翼を授かるって、まぁ金が掛かってしょうもないな。

日々の生活費に頭を巡らせると、いくらも貯金ができていないことに気付く。それはそう。1+1は2なのだから、そのまま勘定すればそれほどの額しか残らないのはすぐに分かるのだけれど、またタバコに手が伸びるしカフェインを含まないとやっていけない。熱いからしょうがないということにしようか。tiktokでたまたま回ってきた動画で、一般的な銀行員の平均年収を紹介していた。彼は三井住友銀行の元行員でしばらく前に辞めたらしいけど、7、8年くらい勤めていた経験をさもすべてを知り尽くしている頭取のごとく饒舌に語っていた。tikitokで人気になるくらいだから、トークはすこぶる上手かった。話の構成というか、話し方と抑揚とオチの付け方と、羨ましくなるくらい話が上手いんだから、芸人としてもやっていけるんじゃないかなと思った。おまけに顔の憎たらしさも売れない芸人そのものだった。でも多分、tiktokでそれなりに儲かっているんだろうというのは来ている上質なスーツと出で立ちと、自身ありげな面持ちから想像がついた。けったいな世の中だ。

当時の月給は1年目こそ20万そこそこだけど、2年時には6万上がり、残業代も含めれば30万近くになっていたとか。でもボーナスは少なく、50万(年2回なので100万)ほどしかもらえない。「・・・ほどしかもらえない」。「・・・ほどしかもらえない」。同じ箇所を何度か戻って繰り返し再生してみたけど、「50万ほどしかもらえない」と間違いなく言っていた。頭のネジが一つ外れてるのかと思った。彼のネジが外れているというよりも、僕のネジが外れていると言った方が適切なのだろうね。ボーナスが100ももらえたら人生安泰でもう思い残すことはないだろう。それが6年目だかに店長代理補佐とかいうよく分からない役職をつけられると月給40とか、ボーナスも100とかに跳ね上がるとかなんとか。もちろん役職に就けない輩は一定数いるわけだからその場合は給料もステイなのだけれど、順調にいけば、30あたりで1000万も見えてくるらしい。その話の途上で僕はもうスマホをベットの脇に放り投げた。充電器に当たってガタンと音が鳴った。それを見るにつけても、もっとド派手にぶん投げてやればよかったとも思った。1000万円の大金を我が手中に収めて満面の笑みで色恋沙汰に耽っている自分を想像してみた。金があればモテるだろうな、タクシー代をケチっている自分はいないしホテル代や夕食代ももちろん奢っている。コンドームはネットショッピングの余ったポイントで買えば十分賄えた、プチ整形をして目が二重になって肌がツヤツヤの韓国アイドルみたいになっていた、髪はもちろんセンター分けで真ん中にあるホクロも消し去られていた、女は見事な女だった、唆るくびれと全体のプロポーションに言葉は必要なく、肉欲さえあればよかった、精力をつけるためにジムに通って体は黒光りしていて、でもサウナは精巣に悪影響を与えるとかでたまに誘われている程度だった、誘ってくるのはもちろんつまらない経営者たちだったが一応付き合いを続けて仕事に生かしているようだった。

ああもううんざりだ。ひどく惨めになった。一般的な会社に勤めてそれとなく社会に順応していれば今頃人生の何たるかを感じ取って生きていたんだと思う。お金があって奥さんがいて子供がいて、競う仲間がいて慕う上司が、従わせる後輩が自分を囲ってさも満足そうに微笑んでる姿が目に浮かんでは、消えてなくなった。人生は二十代の過ごし方で決まる、なんてどこかの誰かが囁いたの声が聞こえるともなく彷徨って、中に浮かんでまた、消えていった。僕の心の中に含まれる不安感や焦燥感、無気力感、孤独感、その中には、浮かんでは消えていくそのような劣等感のようなものが含まれているだと思う。いつだって誰かに遅れを取っているという感覚が僕を離さないでいるのは、事実その通りなのだから、というよりも、ほかの誰かと比べたがっている自分自身にその核を据えている。そして経済的な豊かさや社会的ステータスがその人の本質的な価値を示すとも思っている。偏見に過ぎないのだから、もっと内面的な豊かさを重要視すれば良いのだと考えれば考えるほど、負け犬の遠吠えのように悲しく心に響いていくのであった。

いやはや幾度となくもっともらしい思考をめぐさせたところで結局のところ同じことなのだ。抽象的思考によっては原理的に到達し得ないものを、知覚できるかのごとく振る舞うのはやめにするんだ。西田幾多郎の「善の研究」においては、我々の主客の対立以前の未分化の状態をその本質としており、それらは人間の抽象的な思考においては把握し得ないものだという。なぜなら全ては未分化の状態で存在しており、それが本質なのだから、我が主体となり、自然や物事が客体となるならば、それらはすでに本来ある統一を失った片割れに過ぎなくなってしまうからだ、という。物事の本質は未分化の状態で統一された我々に知覚し得ないものであるという前提のもとに論理が進んでいく。全てはそこから始まっていく。とすると僕らの抽象的思考によって小手先の論理で生きる意味を探り当てようする行為は往々にして何ももたらさないということになる。何をしたところで考えるということそのものが分化から始まっているのだから、統一的な真理にはどうやっても辿り着けないと。我々の認識し得ない統一的な状態を、西田は「純粋経験」だとか「絶対無」という言葉を用いているが、我々の馴染みのある言葉で言い換えれば、それは「無我の境地」「神」なるものと理解すれば良いのだろうか。名前はどうあれ、そういった世界観に触れるためにはもはや論理は全く必要とされない、説明され得ない、論理を超越した価値観であるからだ。目に見えない手で触れることもできない、もちろん論理的に言葉で導き出すこともできない世界観においては、哲学が出る幕はない。あるのは座禅であり、美術であり、その他あらゆる鍛錬による実践において、無我の境地を悟るというよりほかに説明のしようがないようである。してみれば僕のこれまでやってきた思考のすべてが全く意味を失っていくことになる。実践の中で悟るということ。僕は何事も実践していない人間のために、悟るには最も程遠い人間と言わなければならない。

それはそうかもしれないと思った。何ももたらさない思考実験に嫌気がさして久しい。でもそれしかできないということもまた事実。でもどうして?僕の心がなんだか実に卑しいからだね。他人の感じている些細な感情にその都度過剰に影響を受けてしまうからだと思う。ほかの人が嫌といったら僕も嫌な気がしてくる、ほかの人が嬉しいといったら僕も嬉しい気がしてくる、僕の心が軟弱で強固な意志を持ち合わせていないから、見ず知らずの他人が感ずる微細な揺れ動きが全て僕の中に入り込んでくるということだと思う。それは時代的な病だろうか、よくわからない。でも常に他の人の思うさまに従って僕の心が動いていく。でもその他人というの誰を指しているのか実に不確かである。特にネットに不特定多数の匿名の感情に流されているのだとしたらそれは誰のどの感情がそうさせているのだかしれない。入り込んでくるまでは良い、思いやりと言い換えられるかもしれない、でもそれらの不確かな感情に取り込まれ、呑み込まれるに至っては思いやりは別の言葉へ変化していくのだろう。嫌気がさすのはここからだ。