2025/8/31 夏とともにさりぬ

8月が終わる。秋の兆しは、まだ見られない。

仕事が今日で一段落。夏期講習が終わった。本当にあっという間だった。毎年思うことだ。

一番期待をかけているクラスだから、毎回の授業に力が入る、気がする。

でも上手くできたりできなかったりと言うのは1年目から変わらないような。

健気に、懸命に、ひたむきに勉強を続けている生徒を見ると、

僕も同じように懸命になれているだろうか、と鏡のように自分の姿が映し出される。

毎度毎度、味気ない入試問題を解くことに一体どんな意味があるのか、それは僕の心を澱ませるものでもあり、さらに若く瑞々しい心を持つ生徒にとっても、同じように心を澱ませるものになっているのではと思う。

文学作品の醍醐味はその作品の内奥を捉え、かつての先代たちと心を一つにすること、心を通わせるということ。心で捉えなければならない、決して理性的な作業とは思われない。かつての先代たちが悩み苦しんだその心の揺れ動きに耳を澄ませるということ、また彼らの心をいつの時代も癒し続けてきたところの自然のまったき美しさに想像を膨らませるということ、そういった古典文学作品から汲み取るべき宝石を捨象して、抽象的な文章読解や単語の断片的な理解に終始するということが僕らの心を汚していくような気もする。

しかし一方で何かにひたむきに取り組み続ける姿に、健気に努力を続ける姿に、僕は心を震わされる。意味があるとはっきり言えないのにも関わらず、そのひたむきな姿に美しさを感じるということは、その行為自体に、何か尊いものが含まれているということだと思う。そう信じていきたい。

幽霊を信じるということは、不確かなものを信じることであり、奇跡を信じるということにつながる。

不明瞭な悪魔のささやきに心が脅かされうるということが、不確かで説明のつかないような光に包まれうるということをも含んでいる。

生と死は同時に存在し、同時に消え去っていく。

幽霊を信じないということは奇跡を信じないということであり、死を感じないということは生を感じ取れないということであり、説明できないということは説明できるということを凌駕しているということ。

説明に終始するのは愚かなことだと思った。説明できないということの方がより大きな力を含んでいるのだから。

僕は歌になり、メロディーになり、銀色の光になる。