
昨日は気分がすぐれず日記を書けず。かといって体調不良というほどでもない熱もないしご飯も食べる。ただ最近性欲がないのがどうしたものか。
今日は昨日と打って変わって良き日になると思いきや、散々な日になったと思う。それというのもせっかく都内のフラワーセンターに2時間もかけて行ったにも関わらず何も買わずに家に帰ったからである。そうか今日は散々な目にあったのだねと同情を跳ね付けるかの如く僕の情緒不安定な心の動きを堪能いただくことになろう。
お目当ての観葉植物を見つけて小一時間思案した挙句、小さめのパキラとオシャレな柄の青い鉢を購入することに決める。書斎のテーブルで一部空いているスペースがあったのでそこに小さめの観葉植物を置きたいと思っていたからである。さらに鉢はなるべく爽やかな青い柄のものをおかなければ気が済まないという気持ちになっていた。黒や白ではなく、赤や黄色でもなく、青でなければ収まりが悪いし気持ちが全く落ち着かないであろう、と。他の店でいくつか見て回ったけれど、パキラの大きさもそうだし青い鉢が好みの大きさと柄で揃っているのはなかなか見つからないということで、都内最大級のフラワーショップにやってきたのだ。それだけの気持ちの入りようなわけだしわざわざ2時間もきているのだからそれは小一時間も思案することになるのだが、そうと決まってお会計を済ます時に植え替えを頼むと、店員さんが浮かない顔をする。どうやら苗と比べて鉢が小さすぎるらしい。いやそこはなんとかしてくれよと思うも、ベテラン風の庭職人みたいなやつが「この時期に無理やり植え替えをすると枯れてしまう原因になる」と言い出したので僕は何も言い返せずに断念する。もしかして自分がやっていることは人と大きく異なっていることをしているのではないだろうか、自分だけが変なおかしな行動をしているのではないか、こんな小さな鉢に大きな苗を植え替えるなんて世界中どこを探しても見当たらないのではないかと急に不安になってきて、「他のものを探します」と言い残して店を出た。
店を足早に出る途中でも、「どうして僕は店を出ようとしているんだろう、だって2時間もかけてこだわりの品を探しにきたんだろう」と頭の中はいろいろなことがこだまするのだけれど、居心地が悪すぎて何も考えられなくなった。とにかくこの場から離れてゆっくり思案しないと何も判断がつかなくなる。僕は他の人と異なるということを何よりも恐れるので、一旦離れて冷静に考えられる場所から思案してみないことには気がおさまらないタチなのでここでもその愚かな性質が火を吹いた。トボトボ歩いているとどう考えても自分の行動が気を逸していることに気づく。いやその場で別のものに変えて買ってくればよかったものを何がどう転んでこんなことになったんだろうと考えを巡らして、多分あのベテラン庭職人が悪いのだろうとか、言い方に角があるから尻込みしてしまったのだとか、そもそも値段が高かったのだとか、持って帰るのが大変で買わない方が楽でよかったとか色々自分に有利なことを考えて正当化を図ろうとするのはいいけれど、どれもぶっ飛んだ考えなのに自分で自分にびっくりした。
途中で目についた焼肉屋に入る。喫煙所があることを確認する。ほっと一息つく。そうだ喫煙所があるからゆっくり思案することができる、これで僕の正常な頭を取り戻すことができるのだ。店に入ると何か家族連れが多く子供の騒がしい声が耳をつんざくように響いてくる。これは間違えた。ただ入ってしまったのに引き返すのも億劫なのでそのまま席に通される。独り身で焼肉を食べている客が僕一人しかいないことに気づく。急にまた不安になる。僕はまた世界でただ一人の変わり者なのだという気持ちになりいたたまれない気がする。適当に注文して喫煙所で行くが、緊張してまともに煙を吸うことができない。また店員からよからぬことを指摘されるやもしれない。落ち着けるどころの騒ぎではない。子供の声もうるさい。しかしその親御さんというのももしかしたら僕と同年代なのかもしれないと思うとさらに自分の身の上の歯痒さが思いやられる。
たまごがけご飯(なんで頼んだ?)とタンとハラミと鶏肉を焼いて食べる。味はしない。すぐに店を後にする。さっきと一緒じゃないか。やってられないなと思う。
こんなことは日常茶飯事なのでもう自分に対して失望することもそこそこにしていたけれども、今日の自分にはまたとないほど呆れた。何をしに行ったのかよくわからない。よく考えれば店員さんも丁寧な言葉遣いで教え諭してくれていたというのに僕はそれが全世界から弓矢を撃たれたかの如く感じてしまったのだ。これでは何事もなすことができないのだという気分になる。文学者や作家というものは往々にして我が強く意志を突き通すことによって自己たらしめるというのに自分ときたら全くその真逆であるのでもう生きていく価値が感じられないと思う。このしょうもない性質をどうか活かせないものかと思ってきたのだけれど、それももうどうにもならないだろうなと思った。先が思いやられる。
帰りの電車内では気を取り直して源氏物語を読む。人物が頭に入ってこない。誰が誰だか分からない。でも話は進んでいく。和歌が呪文のように見えてくる。現代語訳を読んでもよく分からない。分からないので眠る。1時間くらい寝る。起きて読んでもやっぱりよく分からなくなる。
スマホをいじる。久しぶりにT先生のブログを拝見する。訃報の文字が目に映る。まさかと思ったがそのまさかであった。大学時代から慕い続けていた先生が先月亡くなったということだった。まだ80ということだったのでこんなにあっけなくなくなるとは思っていなかった。ブログも月1では更新を続けていたのでまだまだご健在のことだとばかり思っていたのに。先生の思想は西洋哲学を土台にした近代文明批判であり僕の考えのほぼ大枠をなすと言っても良いものとなっている。近代文明の功罪・アレロノミー(相互律)・行きすぎた経済主義・自然生態系の撹乱・人間精神の破壊・人間疎外、などなど。特に近代文明による精神・文化の破壊というものが現代の生きづらさに直結するのではないか、という自分の勝手な解釈のもとに、今の思想の核を成しているというのはつまり僕の考えがほとんどが先生の思想に負っているものであると言える。家に帰ってすぐに先生の哲学書を引っ張り出して読み込んでみる、しかし内容の3%くらいしか理解できない。すでに重要なところにはいくつものマーカーが引っ張っているにもかかわらず、自分にはよく分からないということが分かるだけだった。先生の奥深い思想を受け継ぎたいと思うもむなしく、先のような情けない自分にしか邂逅できないというのは哀れで惨めなものだなと、思わずにはいられない。そもそも哲学というものに僕が目覚めたのも、もしかしたら先ほどの感じやすさや傷つきやすやを取り繕うための鎧のようなものなのではないかと思った。だとしたら僕は先生のことをただ自分の弱さに直面したくないがために利用していたということではないか。もう何もかもが嫌になってくる。
