まだまだ寒いのでタートルネックにニットジャケットを合わせ、その上にウールカシミアのチェスターコートを羽織る。パンツの下にはヒートテックのインナーを、さらに分厚めの靴下も念のため忍ばせておく。これでも不安が過ぎる。いつもはダウンを羽織るので暖かいが、見栄を張ってコートを着るような場合(本日は見栄を張りたい気分だった)は細心の注意を払って外に出ないと後悔することになるのは今までの経験上よく分かっている。マフラーを無くしたので首元が心許ない気がするが、タートルネックなのでなんとか凌いでいけるだろうと自分を正当化してかかる。極度の寒がりは血行不良のせいなのか遺伝的なせいなのか。でも母親はどちらかといえば暑がりではあるし、父親はどうだったかはわからない、兄貴も寒がりという様子は見られない。血行不良だとしても昔から、小学校の頃から寒がりであるので、生まれてこの方血行が良かったことがないということになる。そんなことあるのだろうか。血は十分に通っているし傷が付けばもちろん真っ赤な血も出る。この前指を鋏で少し切ってしまって真っ赤な血が吹き出した。生きていると思った。
外に出る。カフェに入る。やっぱり寒かった。首元が寒い。マフラーはどこに行った。なくした。どこになくした。ドトール。そう、ここのカフェ。じゃあ聞けばいい。いや、もうなんだか恥ずかしい。聞くのが恥ずかしい。どう思われるのかわからないので3000円で無印良品で買ったマフラーを取り戻すより、何もしないで恥をかかない方が勝つ。多分奥の忘れ物ボックスか何かに大事に保管されているのだろう、でも聞かない。そもそもここの店員とまともに会話したことが一度もない。「アイスコーヒー」とか「ブレンド」とか。「クイックペで」「スイカで」「持ってないです」以外の言葉を発したことがない。会話をしたくないというよりも、恥をかきたくない。他の人から変に思われたくない。変わった人間だと思われると自分の生きている土台が崩れ去っていくような気がする。自分を包み込んでくれるわたあめのような容れ物が吹き飛んでいくような気がする。
変わり者だと思われたくないと思う。周りの人間に同化しないといけない。そうしないと心が浮ついてまともに生きることができない。周りと違っているのが恥ずかしくてソワソワして浮き足だって何にも集中できたもんじゃない。それは仕事であっても仲間内であっても電車内であってもカフェの中においてももちろんそうである。変わり者だと思われてもいいと言うような気心知れた仲間たちといって、僕にとっては数人いるかいないか、家族を含めても。いやいないかも知れない。家族であっても、家族だからこそ気を使うことも多い。特にテレビを見るときには変な番組を見ないようにする、宗教色の強いものは見ないようにするとかはその現れだとも思う。
しかし自分は変わり者になりたいのである。変わったことが大嫌いなのにも関わらず、人と同じであると言うことにそこ知れぬ不快感を禁じ得ない。周りと同じになりたいのに、周りと同じになりたくない、とはどんな心情だろう。あまりにも矛盾した心情を僕はしばらく片方の心情を抑えつけることでなんとかやりくりしてきた。つまり周りと同じになりたくないと言う心情がただのまやかしにすぎない一時の反抗期みたいなものだと。あるいはそれは自分の心の中でだけ宿しておいて、相手に見られたり悟られたりしなければ良いと考えて、表面上は周りと同じになろうとしつつ心の中では同じにならずに彼らを冷笑すると言う方法を編み出した。しかしこれは心が苦しい。隠れキリシタンを演じているようで馬鹿馬鹿しくなってくる。それに他と同じになることというのも、慣れるとそこまで嫌ではなくなってくる時もある。同じにしてれば何も咎められない、金ももらえる、普通に生きていける、褒められる、自分も褒める。その輪の中に入っていれば五体満足、衣食住の安全が保障される、それで十分だと思えば何にも困らない。
一時期はその道を進もうと思った。今もそうかも知れない。第一自分はアートなんてやりたいと思ってなかった、まともな世間一般的な幸せを享受して真っ当な人生を歩んで行きたいと思ってた、今も心底思ってる。
会社の総会があった時、もうこれはダメだと思った。同じスーツを着た同じ髪型の同じ表情をした新卒たちが、代表の挨拶に合わせて一斉に目の前に頭を垂れる、その瞬間に自分も居合わせ、下を向きながら横目で同じ彼らを見た時、胃の中の汚物が暴れ回った気がした。不快感極まり吐き気を催した。だからって君に何ができるんだって僕が言ったし周りの名の知れぬ同じ顔したものたちも全てがよってたかって僕を非難した気がした。確かにそうだと思って僕は自信がなくなって何をする気も起きなかった。仕事に精が出なくて全てが怠惰で目の前にあること全てにやる気をなくした。何もできなくなった。でも生きていくには金がいるから彼らの輪の中に入ってしばらく仕事をした、というよりも、やはりそこになっても周りの人と同じになりたい思いがしたから、他の人と違った方向に進むことで変な人間に思われるのが心底深い極まりなかったからそうしなかった。でもあの記憶はいつになっても拭い去ることができない。いやどっちだ。お前はどっちなんだ。どうしたいんだどうなりたいんだ、そうどこからともなく声が聞こえてきた。

美術館に行く。根岸線に乗って横浜、湘南新宿ラインに乗って恵比寿。恵比寿横丁を思い出す。最近行ってない、今日もほんとは誘われたけど断った。美術館でまだ見ぬ美しさに心を奪われることと、まだ見ぬ行きずりの女に目を奪われること、似たようなものかも知れない。恵比寿に着いて方角がわからなくなる。その前に吉野家で飯を食う。他の店舗とは違うシステムなので戸惑う。席でタブレットからメニューを注文し、後でお会計をするらしい。水も箸もティッシュもセルフサービス。水を汲んでまずお薬の時間にする。注文が届いて牛丼を取りに行く。美味い。どこに行っても同じように美味い。腹ごしらえが済んだので場所を確認する。山種美術館はまっすぐ街道沿いに徒歩10分といったところだった。入り組んでるわけではなくそのまま進めば到着するはずだがいつも迷うので画面を開いたまま歩く。新調した革靴がくるぶしに擦れて痛む。右脚左脚ともに擦れて痛む。沢山歩くなら履いてこなければ良かったと思う。でも正直美術館に行くとは思わなかったからしょうがない。行くつもりだったというか、行く計画は立てていたけど本当に行くとは思わなかった。そもそも歩き方が悪いのではないかと思う。よく考えると変な歩き方だと思う。鏡に映った自分の姿勢と歩を進めるさまがぎこちなく見える。右脚を出し、左脚を出す。頭で考えて歩を進めてみるとさらにおかしくなる。どうやらくるぶしが痛むのだから重心が両脚とも外側に偏っているのではないか。確かに自分は若干O脚気味であるから重心が外側にずれてそのせいでくるぶしが外側に来ているから擦れるのではないか。足を内股気味にしながら歩く。くるぶしを内側にかぶせるように歩く。痛い。うまくいかない。一度上手く行ったと思ったら次の一歩でやはり痛む。自分で自分に騙される。いい加減にしろ。
山種美術館に着く。上野の美術館よりかは小さな建物で、周りはマンションやらが多く、脚に気を奪われて歩いていると突然モダンな建物が現れて少し驚く。
建物に入ってチケットを買う。2600円。まぁまぁ高い。現金で払う、なんでだか忘れた。現金の方が安心できるから。1階は受付とカフェが併設されていた。脚もそうだしなんだか色々気を巡らせられたせいで疲れていたから入ろうかと思ったが、ぱっとみおばさま方ばかりで浮いてしまいそうなのでやめた。疲れた、そもそも疲れやすい体質なので10分も歩けばベンチに座りたくなる。ましてや恵比寿まで電車で来ているのでそろそろ充電しないとまずい。スマホの充電の方がまだまだ持つと思った。
B1階の展示室へ向かう。周りは外国人とおじさまおばさま方が多い。若いものはいるにはいるが現実から逃避したようなうつろな目をしていて不健康そうな体格と顔をしている、つまり自分だ。日本画が眼前に迫ってくる。速水御舟の宵の桜。構成のシンプルさと大胆な構図。解説の文字の羅列が少ない。桜と月がすぐに見てとれるから。左端から桜の木が伸びる。右上に三日月が淡く浮かんでいて、全体を夜気が墨で包み込まれる。日本的なテーマ、対象。色使い、構図、雰囲気。淡く漂う夜気から月明かりが顔を覗かせる。宵に桜が満開に咲き誇る様子を、霞たなびくぼやけた視界で絶妙にしみじみとした情景を表現する。真ん中に猫一匹、体をくねらせて自分の背中を舐めている様、今にも動き出しそうな猫の躍動感ある瞬間を捉える。紅梅と白梅、白梅は上方にしなやかにのびやかに舞い上がった形、紅梅は下方に頑丈な太く角張った枝を備えて剛健な形を対照的に描く。その対になった梅の花を淡い墨で夜気を施すことで両者に統一感を醸し出す。美しく、心を奪われる。

