2026/3/7 断片的自画像

2026/3/7 断片的自画像

A氏の夢をみる。どこかで会う約束をして、行ってみようとするけれど踏ん切りがつかず結局会うことは叶わなかった。今どこで何をやっているのか、忘れたつもりが、局所的に浮かび上がっては、霧のように消えていく。もう何年も経っている。ずっと未練がましく思い返し続けているわけでもない。写真もないし連絡先も知らない。物理的な繋がりという繋がりは全て消え失せてしまっている。おそらくもう会うことは叶わない。微かな繋がりといえば記憶の中に散らばる断片的なイメージのみ。はにかんだ微笑み、エクボ、細くなった目。無邪気な笑い声、前のめりに話を聞く態度、突然猫の話を始めるおてんばさ。断片断片に思い出されるわずかなイメージの欠片が、もう戻ってこない不可逆性と相俟って時に忽然と脳裏に姿を現してくる。何かの拍子に唐突に浮かび上がってくる。でもそれは浮かび上がってくるだけで、全てのパーツをかき集めてパズルを完成させることは、完璧にその輪郭をなぞることは、叶わない。そしてその叶わなさが、より一層深い谷へと誘い込んでいく。

さて、自分が最近好きなインフルエンサー。無邪気に笑うおてんばな性格がたまらなく愛くるしい。tiktokで流れてくる動画、夜寝る前に、またはお風呂に持ち込んだスマホでくつろぎながら見ることが何よりも心の癒しになる。話題のゲームやクイズを夢中になって楽しんでいるその姿を見るだけで日々の鬱憤を全て洗い流してくれるよう。でもふと考えてみると、その顔がA氏と二重写しになってその顔の奥から浮かび上がってくる。あのパッチリした目と力強い意志を持った瞳、我の強そうな角張った顔立ち、笑った時の柔らかくシワのできる顔。どれもこれも忽然と浮かび上がってくるあのA氏とそっくりであることに気づく。特にあのおてんばさ。無邪気さ。それが僕にはないからなのかどうなのか分からないが、そんな要素を、インフルエンサーであろうと知り合いであろうとセクシー女優であろうと素人配信者であろうと、他に見つけると僕は決まって興味を抱いて深く掘り下げることとなり、他の類似する特徴を見つけるとまたさらに夢中になり、あるいは類似する点を見出せないと興味を失うこととなる。ともすると僕は結局のところ彼女の、その幻影を追いかけ続けているだけではないかと感じてしまう。行き着く先は幻だ、何もない。

久しぶりに陽射しを浴びる。眩しくて暖かい。部屋に籠りっきりだと陽の光を受けることもないし自然の空気を吸うこともないし、どんどん生きる力が失われていくような気がする。生気を身体に取り込めていないというような。それではダメだと頭の中では思うのだけれど、身体が追いついて行かないしそういう時は何をやろうという気力も湧いてこないので何もせず部屋に篭っていた。何もせず部屋に引きこもっていたといったらさも主体的に引き籠もっていたという感を帯びるけれども、実際は外に出よう出ようと頭では常に思っていながらまだ後でいい後でいいの繰り返しで、結局振り返ってみれば一日引き籠もっていた、というようなただ感情に引きづられての引き籠り、という感じだった。僕が家に篭りっぱなしであるのは大体においてそのような引きこもりなのであって、「今日は1日引き籠りをします!」なんて主体的な引きこもりは多分引きこもりとは言わないのだろうと思う。

ハクモクレンが街角に美しく咲いているのを見かける。白くて可憐な花。色合いからなのか形状からなのか、遠目に見てとるとどこか寂しく物憂げに見えるというのは気のせいだろうか。ポツポツまばらに咲いていて、桜のように満開の花を枝の先々まで咲き乱れるという華やかなものではないからなのか、道行く人でそれに気づいているものはおそらく数多くはいるまい。ふと気づけば盛りは過ぎ去って、道端に花弁が散らばっているのを見かけるに過ぎない。そんな特に目に止めることも少ないハクモクレンだが、ただこれが夜の暗がりに、上から照明を当てられると実に表情を一変させるように思う。どこか魅惑的で麗しく、男たちを誘惑する夜の女のような雰囲気を醸し出す。昼間に通りかかってもさほど目には止まらないが、夜になるとふと目を止めてしまう。暗がりの方が映える花もあるものなのだな。

横光利一の「旅愁」を半分くらいまで読む。長い。全然読み終わらないことに加えて大きな展開も少ないので退屈な時間を過ごすように思われる。でもところどころに西洋文明批判が散りばめられているのでぼーっと素通りしていると大事な箇所を読み落とすことになってしまうので油断できない。第二次世界大戦前夜のフランス・パリが舞台になっているので時代的な違いも感じつつも、西洋の合理主義批判というのは自分の感覚とも共鳴する箇所がないわけではない。ただやはり現代の僕が感じるほどの無力感や閉塞感、窒息感というものとはまた質を異にしている感がある。合理主義か否か、西洋諸国の科学主義か日本の国粋主義か、等に焦点が当たる。戦後の経済主義一辺倒や機械化工業化とそれに伴う自然環境の破壊、社会コミュニティーの破壊による精神性の退廃というところまではいっていない、今の自分からするとまだまだ平和で平穏な時代(精神的に(僕が使う意味での)もちろん大戦という意味では大激動の時代だが)であったというような印象を受ける。といってもまだ半分しか読んでいないので(さっきも言ったが本当に長い、早く終われ)、なんとも断定は難しいながらも、彼とはまた別の視点で西洋文明に対する疑念を投げかけている小説を読みたい。ChatGPTで検索するとすぐに意図を汲んでくれて、いくつか有名な作家を具体的に提示してくれる。「多和田葉子・平野啓一郎・小川洋子・村田さやか」などなど。女性作家が多いな。先日ネット記事で見たものもそういえば、日本の女流作家が海外で人気を博しているというものだったし、そもそも源氏物語も女流文学だし、日本は女性の方がその良さを発揮できるのかもしれないなと思いながらいつか読みたいなと思う。しかしまぁ情報過多の時代だからなのか、まだ横光の小説一冊じっくり読み込んでいないにも関わらず他の作家や作品の内容を検索して概要だけ見て興味を抱いて、ともすると読みかけの本を脇に据えたまま別の本を読みあさってしまうというのが多くなってくる。いわゆる積読(つんどく)という現象なのだと思うけれど、一つのことに集中して全神経を注いで熱中するというよりも、膨大な情報の中で気になるところだけをつまみ食いして楽しむということが最近の良さでもあり悪さでもある気がしてくる。腰を据えて一つの物事に、それは女性や恋愛関係も含む、集中して向き合うことができなくなっているとも言えるのかも知れないが、よくわからない。あれやこれやと好奇心に応じて断片的記憶ばかり蓄積されて後には何も残らないというのが現代病だと思えてならない、または僕の浮気性的な心持ちなのかも。

村上春樹がNew York timesのインタビューで自身の近況を語るという記事を見る。内容は有料なので全ては読めなかったが(無料で読ませてよ!)、ここしばらく大病を患っていたとかで、病院で1ヶ月近く過ごして体重も15キロほど痩せたということだった。この記事を見て率直に自分は心の底に安堵か何かのようなものを感じた。あの村上春樹であっても風邪を引くんだというとおかしな話ではあるけれど、小説から滲み出る自信と意志の強さや文学者としての矜持など、到底僕らには叶うはずもないような不屈な強靭なメンタルの持ち主であっても、大病を患い身体を壊すのだと。心技体すべてのバランスが整いその全てをコントロールして今までもそしてこれからも保ち続けるであろうあの村上ワールドがバランスを失う、しかも病気、体のバランスが崩れているのだろうか。奴にも弱点があった、盲点があった、僕らの付け入る隙があったのだ、全ての見通す千里眼のような眼差しにも見えないものがあったのだ、世にも奇妙な物語を紡ぎ、この世のありとあらゆる不可思議な現象に精通しているはずの彼が狼狽えている、さぁチャンスだ、なんてね。トドメを指すんだ、なんてね、彼も死ぬのか。信じられない、でも死ぬんだ。どんな人間も。