2026/3/27 現代アートを思う 〜森美術館にて〜

2026/3/27 現代アートを思う 〜森美術館にて〜

(あんまり上手く書けない・言葉を紡ぐ練習みたいなもの)

六本木の森美術館へ行く。以前にも村上隆の美術展を見にきたことがあった。六本木駅を出て適当にふらついていれば辿り着くと思っていたが見当たらない。案内地図を見る。よく分からない。スマホで場所を調べる。目的地まであと100mまで来ているらしいがどこにもそれらしきものがない。森美術館はS3Fと書いてあるものを目にする。3階ということなのだろうか。53階?そんなところに美術館があるはずがないだろう。案内に従って歩を進める。エレベーターを登って標識に従っていく。若い女二人組とすれ違ったのでどうやらここら辺で良さそうではある。進んでいくと黒いスーツに身を包んだスタッフに誘導される。「こちらの高速エレベーターに乗り換えていただいて、53階でございます」あぁ本当に53階なのか。確かにこのビルはそれぐらいの高さはありそうだった。何でそれに気づかなかったのだろう、目の前しか見ていない自分に情けなさを覚える。

53階に到着する。受付は吹き抜けになっていて真ん中のエスカレーターで奥まで登れるようになっている。そこにおそらく展示室があるのだろう。そう言えばこの景色どこかで見たことがあるなと思った。多分前回村上隆の展示会に来た時もここを通ったはずだから。あの時は当時付き合っていた彼女と二人だった。会話する事に必死でところどころの記憶が曖昧になっているのかも知れない。そう言えば美術館を見終わったあと、近くのカフェでコーヒーを飲みながら旅行の計画を一緒に考えたっけ。結局別れて行くことはなかったのだけれど。「他の人たちと違うところに行きたい」。「誰もまだ言ったところに行きたい」。「インスタやツイッターで写真をアップした時に他の誰にも場所がわからないようなマイナーな場所に行って他を圧倒したい」。そんなことを言っていたのを思い出す。よく分からないところで意地を張っていた。今もそうじゃないか。

「時間は過ぎ去る わたしたちは永遠」。美術館に入るとすぐさま今回のテーマとなる「時間」についての説明書きに目を奪われる。多くの現代アーティストが一つの美術館に展示されるこの展示会ではテーマを決めないとどうしてもバラバラで脈絡のないものになってしまうのだろう。今回は「時間」というテーマを軸にして現代社会を考えるきっかけにしようということだった。「時間」。我々が当然のものと考えている「時間」についてアートを鑑賞することでその実体のない空気みたいな概念を浮かび上がらせる。たまに評論文の中では「直線的な時間概念」と「円環的な時間概念」を比較して近代と前近代の特質を表すようなことはあるけれど、やはり実生活の中で目に見えない「時間」について考えることや意識はしないことであるし、そういう我々が当たり前と思って過ごしてきた常識のようなものを相対化して俯瞰して考え直すというのは現代アートならではだとも思う。先に進む。

ヘンテコな自画像が飾られている。ヘンテコと言ったら鑑賞者としての審美眼を疑われるかも知れないけれど、ぱっと見で美しいとは思えない。何が良いのかよく分からない。説明書きを見るとどうやら悩み苦しんでいる自分をあえて題材にしてアートとして表現したということだった。そう言われてみればいくつかの絵の中に浮かぶ顔の輪郭に特徴があるし似たものでもあるらしい。それがどれも自分の心を写したものだというのであれば確かにそのようだ。アーティストは心の中にわだかまる苦悩や鬱屈した感情を、言葉に言い尽くせない感情を、別の風景に情景に、または造形としてそのまま表現する。そして表現している人自身は心の中に潜んだ隠れた想いを託すだけであってその表現しているもの自身ということはテーマにならないことがほとんどであるけれど、ここではその苦吟しているアーティスト自身が主題になっている。面白いなぁ。今まで考えもしなかったような視点で表現するというのはあらゆる物事に対して常識を疑って発想をより柔軟にして行くべく促されるような気がする。ハッとされられる。全く違う方向から物事を見なければならない、常に見えていない視点というものを考えるように、叱られている気分になる。

次のアーティスト。使い古された衣服に独特の刺繍の模様が施されている。そもそも絵画ですらない。アートが絵画だと思ったら大間違いで、日常に僕らが袖を通す衣服ですらも、アートに昇華することができる。またハッとする。これがアートでこれがアートではないという決まりきった固定概念というものを一掃してくる。平面的で枠が決まっている絵画よりも、より奥行きや素材の違いがありありと感じられる衣服、さらにそれは遠くの彼方で芸術家が拵えたものではなく、自分らがいつも袖を通しうるような身近な衣服によってそれらが表現されているところに面白さを感じる。衣服の色も然り材質というのも目を凝らせばそれぞれ異なっていて、コットン地なのかウールなのかシルクなのかその素材の一つ一つの違いというものも感じ取る。刺繍の模様も見たことがない歪ではあるけれどどこか統一感のある不思議と惹きつけられるような形である。一つ一つ手で細かく編んでいるのであろうか。蜘蛛の巣みたいな円形のフォルムは遠目で見て美しく、近くで見てもさらに繊細な手の内が想像せられる。面白い。

伝統的な陶磁器にインスパイアーを得た作品群。新鮮さは圧倒的なその大きさ、そして色遣い。陶磁器といえばと想像する大きさの多分100倍くらい、つまり人間の同じくらいの巨大な大きさで、その異様なまでの大きさに驚かされる。色遣いも斬新で、普通思い浮かべる黒や茶色の陶器にはない原色のハッキリした大胆な色使いに度肝を抜かれる。伝統文化を継承しつつも一方でその常識を覆すことでまたもこちら側に既成概念をぶち壊すように促されている気分になる。ただ、あっと驚かせはするものの、あんまり美しいとは思わない。身の回りにコレクションして毎日眺めて落ち着きを得ようとかそういった類いではない。現代アートというのは概念の破壊というものが主眼に置かれることが多く、それらを日常の世界に取り込んで美しき心を養って行くような伝統的な美術品とは役割が違ってくるのかと思う。

通路の曲がり角にまたも新しい展示物を見かける。展示物といってもそれは絵画のように一つの枠におさめされた作品ではなく、曲がり角そのものが展示物になっている、これまた異質な作品。角をうまく利用しながら、六本木の地下鉄駅出口をそのまま写実的に再現した作品。地下と地上を結ぶその出口にこれから入らんとする、そのよく見る景色そのまま。六本木駅と記載のある看板。付近の案内地図。下に目を送れば黄色い点字ブロック。そしてその点字ブロックに落ちるイチョウの枯葉、捨ててある飴玉の包み紙、おにぎりの袋、ファミチキの袋。すべてが現実にありそうなものをありのままに再現している。これもまた常識を覆される。我々が日常目にしているもの自体がアートの源泉になる。我々が目にしたことのないものがアートになるのではなく、目の前にあるありふれたものこそアートになるのだと。芸術というものの常識をまた更新せられる。

次。今回の目玉作品。パンフレットの表紙に使われていたことからも分かる注目作品なのだろう。まず黒いカーテンで仕切られた一室に入る。中は暗い。全く違う空間に張り詰めた冷たい空気すら感じられる。壁に配置された絵画や台に置かれた陶器などと違って、黒に包まれた空間そのものがアートの世界であるかのように、全くの異質空間に誘われる。この時点でまたアートの常識を崩す。中に見えるのは一つの木を模した白いモニュメント。暗闇の中で映える純白の枝先からシャボン玉がゆっくりと落ち、転がって、弾けていく。弾けた後の淡く儚く飛沫が飛んで消えて行く様がどこか哀れな日本的趣深さを感じる。うーんなんとも筆舌に尽くし難い感興を与えてくるが言葉にするのが難しい。まずシャボン玉が落ちて流れて消えていく様の時間的な流れを感じさせるのが面白い。これは絵画や陶磁器にはない。そしてそれらの動きがAIによって計算されてランダムで出現してくるというのも面白い。決まりきった動き方をするのではなく、毎回違った動きをするし毎回初めて出会ったような弾け方をする。一瞬一瞬に息を止めて見入ってしまう。そして先ほども述べた泡の弾ける様。弾けた霧が後ろにある照明から照らし出されて幻想的な雰囲気を醸し出す。そして最後には消えてしまう。永遠と見ることは叶わない、一瞬の煌めきのようなもの。一瞬一瞬に価値を持たせるような、そんなメッセージ性も読み取ることができるかもしれない。この作品が今回は最も印象的で一番心くすぐられた。

最後のブース。白い壁に銀色の長方形の箱のようなものが取り付けてある。大きさ2mほどもあろうかというくらいで艶やかな銀が映えてそれだけで存在感が圧倒的である。何を模しているのかはよく分からない。その上にこれもまた銀色の箱型のスピーカーが2つ付いており、先ほどの長方形に向けて音が流れる。反射しているからなのかよく聞こえるのだが、日常の雑多な生活音と会話が聞こえるだけでなんのこっちゃよく分からない。説明書を見るとどこかの街のどこかの雑多な日常生活を録音したのだという。英語なのか何語なのかよく分からないので会話の内容はよく分からない。しかし日常生活の一つ一つの音に価値があるのだと伝えたいらしい。ふむ。奥に進むとまた別のアーティストの作品。対角線2メートルほどもあろうかという大きな菱形の造形物。輪郭が金色に縁取られているが、枠内は透明のガラスで出来ている。そして菱形の下半分には紅茶が入れられており、淡い茶色で彩られる。上半分はガラスで透き通っており、外の景色をそのまま一望することができる。そういえばここは53階の高層ビルで見晴らしも良いのだった。その眺望を利用しての作品だと思われる。説明書を見ると、透明のガラスから東京を一望することももちろんできるが、淡い茶色で彩られた部分から覗くと景色がまた一変する。東京の高層ビル群がすべて茶色に染まってまるで西陽を淡く浴びたかのような景色になる。地の利を活かした作品でもあり、発想そのものが斬新で面白い。

さて、現代アートというのは難解で理解しづらく呆然と眺めているだけでは何も感興を抱かせないものも数多くあるのだが、とはいえ説明書を見てその作者の意図を汲み取って見てみたり、現代の忘れかけている何ものかを意識してみるならば、我々がなかなか意識することのないものに気づかせてくれる、見るものの意識次第で何色にも変化していく万華鏡のようなものだと感じる。これはこれで一見の価値がある。斬新な発想豊かな想像力、大胆な構図や題材や配置に環境。新しいものを常に追求していくことが芸術のなすべきことだとしたら、やはり現代アートはその最たるもので、最先端の技術や素材を駆使して全く新しくこの世にまだないものを常に表現する新鮮さを体現している。その純粋な飽くなき探究心、新しさへの好奇心や渇望に触れるだけでも、我々の凝り固まった日常に光を差してくれるよすがとなりうるのだと思う。

と、言ったところで、僕は現代アートの信奉者になろうとしているのではなく、自分としては現代アートの面白さをしみじみと感じつつも、でもそこには何某かの空虚さのような、冷たさというのか、そこ知れぬ不安感を漂わせてくるものがあると思う。それは現代社会を壊し我々の土台となる価値観を揺り動かしているからというものではなく、それらに内在的に付き纏う虚しさ、つれなさ、疎外感、寂寥感、空白感によるものだと思われる。ここはうまく説明ができない。でも自分を取り巻く不明瞭な虚無感というものを露わにする意味でもすごく重要なキーになるテーマだと思う。ただまだ漠然としか掴みきれていない、明晰に説明できる気がしない。上にも書いた通り現代アートには確かに論理的には意義を感じる。もちろん意義があるし面白い、でもそう思いつつも、なぜこれほど空疎な感を受けてしまうのだろう。感覚先行でそれが正しいのかどうかよく分からないが、次回は日本画と比較して考えてみたい。それによって自分が感ずるこの虚無感へ光を当ててくれるような気がする。