
またも何もせずに月日が過ぎ去っていくのをただ眺めている。その時々で世間を賑わす話題にただ流されていく。彼らの活躍をただ見送っていく。僕は一緒に流れていくことができずにそれを傍観しながら一所にずっとしゃがみ込んで、うずくまって、また立ち上がってみたり、星を眺めたり、川の流れに耳を澄ませてみたり、でもまた世間の賑わいに目を留めたりする。ふと立ち上がって一点の物事に集中して考え込んではみるものの、結局それがために頭が痛くなったり息ができなくなったりして、いてもたってもいられなくなって、また世上の物語に羽根を休める。

でもそんなもので僕の心は休んだりしない。より一層腹の奥底でマグマのようなものがふつふつと醸成されていく。だからと言って自ら駆け出して世上の物語に身を投げたり川の流れに身を委ねたりするようなこともできない。ひと所にずっとうずくまって来るべき時をずっとサナギのように牛のように待つことしかできない。いや待っているのではない。日々流れては消えていく世上の物語に心を奪われあれやこれや頭をこねくり回して考え込んだりしてみて、至上の理を見つけ出そうと躍起にはなっているもののいつまで経っても何も見出されずに結局何もやる気が起きなくなって、気づいたら時が経っているのだ。それを時が経つのを待っているといえばそうなのかもしれないけれど、まったく時を味方につけることが出来ずにただもがいているだけだと思う。もがいてすらいない。もがき苦しんでいるとか、生みの苦しみだとかそう言った正当な苦しみであればもはや良かった。そんな苦しみにすら見放されてしまった自分というのは一体何なのであろう。ただぼんやりと川の流れを眺め続けるというのは川に流されるより苦しい。いや苦しいのではない。まったく苦しくない。それでも何か形容し難い閉塞感に包まれている。これではもうダメだ、と何度思ったことか。

哲学的思索に夢中になって色々有る事無い事考えをめぐらせる。A先生の思想的系譜をどうしても辿ってみたくなる。ある思想が生まれてくるのは突如として無から有が立ち上がるのではなくして、その思考のプロセスというものが必ずあるはずである。特にA先生のような深淵で生きるということの本質をつくような思想で、さらにそれに類似する思想があまり見当たらないということになればなおのこと、誰か別の思想家や哲学者の言葉を引用しているのか影響を受けているのかしなければ生まれてくるはずもない。しかしその根源を探るというのが大分骨の折れる作業で本格的に全集を読み込まないとおそらく見えてこない。さらに著作集に少しでも触れてみるとそこには、プラトンだのアリストテレスだのライプニッツだのヒュームだのカントだのありとあらゆる哲学者の名前が出てきてとてもじゃないがそれら一つ一つについて明確に理解を深めることは叶わない。やるにしても10年20年はかかってしまうし、その最内奥を捉えることが出来た時には多分日が暮れている。ミネルバのフクロウは夕暮れに飛び立つとかそういうことも冗談ではなくなってしまう。僕は常々昼間から飛び立ちたいと思っている。
とりあえずカントをやろうと思った。入門書を図書館で借りてきて、所謂カテゴリーだか範疇だかよく分からない訳語と相対峙してみる。判断力批判のところがよく分からなくなる。道徳感が現実離れしていてよく分からなくなる。こんなのでは最内奥なんて夢のまた夢だと思う。
シェリングがどうしても気になる。シェリングの主客一体となった神秘的な世界観が先のA先生の思想と近しい部分もあり、さらに主客一体自体が東洋的な趣も醸し出していることからか、自分の心と共鳴することがある気がする。もっというと自然哲学的な視点においても自然との一体を表すような、生命の永遠の流れを表すような思想に心惹かれる。そもそも日本の自然への愛着というのが西洋思想を超え出てすらいるように感じられていたこともあってか、とにかくシェリングはやらねばならない。でもシェリングをやるということはカントをやるということであり、あの難解と謳われるヘーゲルも、ともするとその土台となったデカルトやライプニッツやヒュームやはたまたプラトンアリストテレスはギリシャの諸々の哲学者の名前もさも同窓会かのように顔を出してくる。生半端な理解ではいけないのだから当然彼らにも一人一人軽く挨拶はして置けなければならない。でも主賓のシェリングにいち早くもてなしをせねばならない気がするがでもでも彼をもてなすにはそれ相応の教養が必要になってくるからやはり同窓メンバーへの挨拶回りから始めるべきなのではないか。いや目的を見失ったら何も見出せずに日が暮れる。早く結果を出さないといけない、早くこんな生活からおさらばしないといけないからこんなところでミイラと悠長におしゃべりなんてしていられない。シェリングを読む。

さてよく分からない。というより西洋哲学を読もうとすればするほど体調が悪くなってくる。夜が眠られなくなって朝起きれなくなる。朝飯を食わなくなるし昼飯も食われなくなる。夜ご飯だけ食って寝ようとするとお腹が空き過ぎて眠れなくなるので夜中にラーメンを食らい、また眠れなくなってドツボにハマっていく。夢の中でシェリングの文章を読みながらどうしてもお腹が空いてたまらなくなって焼肉を食いにいく話になって突然そこにA先生が僕の家を訪ねてくる。何をしにきたのかは分からない。大事なことを聞きに行こうと思う。なかなか会う機会がないのだから。留年しているにも関わらず学問を学びたくていっぱいで、就職しようか学問をやるかどうすれば良いか聞きたい、何か深遠な啓示のようなものを受け取りたい。そんな矢先に先生が喀血をする。先生は居間のソファーに横たわり死が間近にあることを仄めかす。僕は何も問うことができないまま立ち尽くす。奥さんが先生の介抱をする。いつの間にか奥さんが先生の傍にいる。僕は泣きそうになりながら、こうなる運命であったのかと諦めの思いに包まれる。パパ、と頭の中で呟く。
死ぬほど腹が減って目が覚める。窓の隙間から薄明かりが微かに漏れ出ている。夜明けなのか夕暮れなのかわからない。夜明けだといいなと思って、とりあえず床に転がっている菓子パンにかぶりつく。レッドブルの空き缶が音を立てて転がる。

