2024/4/19 春うらら

まず第一に、僕は僕自身の心を埋める作業をしているということ。心の空白を埋めるようなことしかしていないということ。それによって僕は僕自身を取り戻しているかのように見えて、逆戻りしているということ。

それ自身を止めることができないという事。蛇が尻尾を喰らうように、僕が僕自身を食らっているということ。

それは僕自身に責任があるということ。

それは社会に問題があるということ、そして社会に押し付けることに生きがいを感じているということ。

それは半分嘘で半分ほんとであるということ。

僕が行っていることのほとんどは何かより超越的なものに支配されているから。僕以上の何か無意識的なものに支配されて成立しているから。

僕の悪事は僕のせいでもあり、僕以外のせいでもある。それはそう。特に何か、誰かに伝えたいわけでもないけど、それが何か、他人からどう思われるとかは別にして、そう思うだけ。

僕は知的だあることをやめるべきだ。知的であることふりをすることをやめるべきだ。この文章は知的であろうとしているわけではない。僕が感じたことそのまま。稚拙な文章、バカな文章、それで良いんだと思う。でも、考えることは好きだし、社会的な何かに問題があると僕は思っているし、それをいつか変えていければ、変えていってほしいと思っている、いや、そういう事実があったということを文字にするだけでも、何かが誰かに伝わると思う。

僕らの時代が後世にどう伝えられるかよくわからないけれど、負の側面や間違った側面、その時代の陰の部分にはもちろん焦点を当ててもらいたいと思う。昭和の時代にも負の側面があったと思う。僕らの世代であれば、一度は思うこと。僕らもああいう時代に生きていたらどれだけ幸せだったろう。そう思うよね。近年のコンプライアンスの遵守で生きづらい世の中になってしまったと嘆く昭和世代を見て、それらが緩かった昭和の時代に自分がいたら、どんなに幸せだったろう、と思う。

僕も学生運動がしたかったな。周りに人々と一致団結して、社会紛争を起こして、正義のために戦いたかったな。悪の組織を自らの手で叩きのめすような、漫画や映画のような世界を生きてみたかったな。コナンの黒の組織を打ちのめす物語なんて何の現実味もない、ただのフィクションで(そりゃそうだ)、全く共感できない。でも興業はうまくいってるし、逆にそういったフィクションに頼らないと生きていけない世の中なんだろうと思う。悲しいな、と思う。リアルが力を失って、フィクションが、本当のフィクションが力を持っている、これは力を持っているというのかな。本当に悲しくて、残念でならない。そう思わないか?

昭和の負の側面は山ほどあると思う。犯罪が多い。戦後の犯罪の多さには辟易する。それは戦争が終わったという開放感なのか、経済的な要因なのか、思想的な転換からなのか、異常な数値だと思う。それと昭和ではないけれど、90年代や00年代初頭の犯罪の多さにも驚嘆する。これはモラルの悪化が騒がれていた時代で、教育勅語を復活させるなんていう話も囁かれていたほど。凶悪事件で少年法が問題になったり、援助交際(今でいうパパ活)やら家出少女(トー横女子)やら今から考えると本当に無茶苦茶な時代だったように感じる。でもパパ活やトー横を見るとただ名前が変わっただけな感じがする。いやでも、数値的に見ると犯罪数や犯罪率は圧倒的に現在の方が低下しているからね。同等に扱うべきじゃない。

そして僕の大きな問題意識は、というか大きな疑問は、どうしてモラルが著しく低下した90・00年代から10・20年代にかけてモラルが復活したのかということだ。モラルが本当に復活したのかというのは議論があるとしても、犯罪数・犯罪率の激減などや若者の礼儀正しさ、大人しさを見れば明らかだと思う。でもそれは政府が何か大きな改革や教育方針の見直しがあったわけではなく、もちろんゆとり教育は無くなったけど、それはモラルとは関係があるとは思えない、なぜだかモラルが復活してきたということが僕には不思議でならない。これが10年周期などで訪れるものなのか何なのか、よくわからないけれど、僕としては早く周期が一周してモラルがまた乱れれば良いと思う。生きづらさの根源はこのようなところにある。というかこれは根源のところが曖昧になっているのでよく分からない、というかよく分からないから生きづらいだろうな、政府の要人のこういう人がこういう政策をやったから今の世は乱れている、となった方がまだ生きやすいよね。安保闘争は生きやすいじゃないか、だって誰が敵で誰を攻撃すれば良いかよくわかっていたから。今の誹謗中傷って何だろう。みんなが思っていることだし僕も思っていることだけど、それは何か隠された生きづらさへのその時代なりのアンサーになっているんだろうと思う。良くないことだと思うけど、その根源にある何かがそうさせていると思う。そしてその根源が曖昧なのでどう変革すれば良いか分からない。マルクス主義は良かった。資本家を潰せば良かったから。今の時代の悪党は誰だ。水原一平だ。あれは今世紀最大の大悪党だよ、ほんと。

プーチン大統領が西側諸国の、アメリカスタンダードの世界観を潰してくれるという意見を目にした。ウクライナ紛争がさらに拡大して、イランやイスラエルの問題がどうなるかは知らないけど、というか本当に中東の情勢はよく分からないしあまり興味がない、とにかくアメリカが押し付けてきた大枠の価値観を変革してくれれば、この社会的な悪をまとった雲が晴れるのではないかと、そういうこと。なるほどなと僕は思った。くだらない陰謀論だ、と誰かも思った。僕も思った。社会的な正義がどこにあるかなんてよく分からない。西側諸国から見ればロシアが圧倒的な悪に見える。報道だけを見ると今世紀最大の悪党がプーチンなんだと思う。水原一平は人を殺してないと思う、いやどうだろう。

でもロシアが西側諸国に縛られない価値観を有していて、もしロシアが優勢になれば、天地がひっくり返るのではないか。僕らの生活が一変するのではないか。この固定的で凝り固まった世界よりもずっと晴れてスッキリした世界なのではないか、そう思うのである。本当にこう、この社会は固定的で何も変えられない世の中だと思う。政治で日本を変えられるのか。投票に行っている、行っていても変わってない。これはもうなんか非常に腹が立つ。投票に行く行かないの話に終止すること自体がよく分からない。僕はこの世が変わらないから投票に行かない、というのはそれも一つの選択だと思う。投票を強制しようとすることには反吐がでる。そして投票していない人に対するインテリの(自称インテリの)、どうしようもない批判が表現できないくらい嫌いで吐き気がする。嘔吐より嘔吐。サルトルもびっくりの嘔吐。吐き気。どっちの訳が正しいのか忘れた。投票という行為自体で本当に社会が変えられていないということそのものを問題にするべきだ。そしてこれは旧日本軍の反省によって作られた民主制がそうさせている。平和になったし物事に筋をより通せるようになったのはいうまでもない。しかし大きな権力を一部の人に集約させること、大きな変革を一度に行うことを凄まじく恐れるようになった、そしてそれができない。戦争で大きな犠牲を払ってしまったから。大きな変革、権力の集中がイコールそのまま大きな犠牲になってしまったから。

つまり、どういうことだってばよ。社会を変えることができないという日本の凝り固まった虚無主義は、日本の歴史的な経緯からもたらされたものだということです。僕らの虚無主義は、僕らの先祖から受け取った政治制度やシステムによって構築されているということです。

僕は戦争を肯定したいわけじゃない。でも戦争は生きやすかったと思う。僕は生きたいと思う、今よりももっとまともに生きたいと思う。僕は僕自身ではないので死んでいると考えていいい。それはつまり、戦争を肯定することになるということ。戦争は全てが間違っていた。戦争はすべたが間違っていたわけではない。諸々の考え方があると思う。僕はそのどれとも意見を異にしていると思う。特に後者と混同されるのは心外だ。僕は戦争肯定派ではない。稚拙な国粋主義者ではない。ありきたりなナショナリズムを、もううんざりするような言説を並び立てたいわけじゃない。彼らは日本が好きというより心の空白を日本で埋めているだけじゃないか?そんなちっぽけな空虚なものじゃ埋まらない。

僕はまともに生きて行きたいと思う。そしてそれを実現するためには現状の固定的な社会を打破する必要がある。革命的な思想家みたいで面白いな。でもそうだよ。僕はそう思う。思考実験として。