2024/5/13 変わらぬもの

ドトールにて

父方の祖母の四十九日が日曜日にあった。親戚が数人集まってお寺に行って、骨壷を奉納した。

父親の弟(僕のおじさん)とその奥さん、亡くなった祖母の兄弟の息子(父親のいとこ)とその奥さん。父親の従兄弟ということだが年齢がだいぶ離れており、80歳と高齢夫婦であった。祖母は大家族(当時は当たり前だった)の末っ子?のようで上の兄達とは大きく年齢が離れていた様子。どうやら弟の末っ子は養子?で別の家庭に出したとか、上の兄弟も早くに亡くなった人がいたりとか養子に取った人がいるとか、大家族にも何人かの出入りがあったらしい。そういう時代。戦地に赴いている人も周りにいたんだろうし、幼少期に兄弟が亡くなったり、親や親族が亡くなったり、今とは価値観が大きく異なっているのも頷ける。

彼らの生きた時代を想い、僕らの生きている時代のことを考える。価値観がまるで違う。何が大事で何が重要でないのか。生きていることそれ自体に価値があっただろうし、親がいること、子供がいること、家族や一族がつながり、それらが繁栄することそのものに、大きな価値があっただろうと想像できる。彼らの時代、国が変わり憲法が変わり政治や社会や組織も何もかも変わり変転していく世界にあって、自分の自分たる所以や変わらないもの、守るべきものが何なのか、それらはより根源的で本質的な何かに近づいているような気がする。翻って僕らの時代、社会が変われば価値観も大きく変容するのはその通りだけれど、それでも変わらない何かが、根源的な何かを探り出す必要がある。変わっていくこと、変わり果ててしまうことは世の常として、変わらないもの、変わってはいけないもの、本質的・根源的な何ものかについて、想像を膨らまし、考えを巡らす、ということ。

さて、祖母が残した手記のようなものが見つかった。老人ホームに入ったおりの、日々の生活や自身の半生を記したもののようで、キャンパスノート1冊と小さなメモ帳1冊。80年の人生を概観して、これまでどこでどのように暮らしてきたのかなどの自伝的なものが少々、日々のホームでもイベントや出来事、自身の病気の記録なども克明に記されている。

祖母の手記

10年ほど前に一度脚を怪我して入院した時の気持ちや僕が大学受験に失敗して落ち込んでいる時も気持ちなども、書かれていた。当時80を越えて高齢にも関わらず信念のこもった日記に恐れ入る。昭和の人たちは激動の時代をくぐり抜けてきたからなのか、意志がめっぽう強い。と同時になんだか文体や問題意識みたいなものがと自分と似通っているような感じがする。普段話す時はこんな文学的な雰囲気はなかったけど、文章として見るとまた印象が異なるなぁ。こうやって僕が文章を書いていることそれ自体、自分の先祖から受け取った何かなんだなぁと思う。

こまごました内容を載せるのも不粋なので、いくつか抜粋して載せられたらと思う。

病院で昔を振り返りながら書いたと思われる一節

やがて八月十五日運命の終戦を迎えた。校庭に並んで天皇(昭和)の終戦の詔勅を聞いた。ラジオの音は小さく内容はわからなかったが、前列のすすり泣きですべてわかった。男も女も誰もが抱き合って泣いた。日本は敗けた。国はどうなる?戦地にいる兄達はどうなる。まず両親のいる家に帰ろうとその日のうちに、中央線のあふれる列車の窓からのり、家になんとかたどりついた。実家は焼け出された親戚やそかいの人たちでごった返していた。やがて学校が軍需品工場から、又、元の教室に作りかえられ、授業が再開したのは、たしか、九月も半ばを過ぎた頃だったと思う。二年生の秋であった。それからは、遅れた勉強を取り戻そうと学生は皆必死に頑張った。

私が卒業まで苦しんだのは英語だった。一年生でやるべき学習が何もせず一気に二年生の教科書に進んでしまったからだ。何事も基礎が大切である事をこの時悟った。(中略) 私の青春は波瀾万丈だったとつくづく思う。(中略)

いつか家族ぐるみで夜空の星のようにさんざめき、煌めきたいものである。夢のまた夢だと知りながら

〇〇病院にて

平成二十五年四月二十五日

戦争のついての記述はほとんど見当たらず、この一節のみ。中学生あたりで終戦の詔勅を聞いたようで、自分が歴史的羅列として学んでいたものが具体的な日記とともに昇華される。それは本当に目の前で起こった出来事であり、運命の終戦であった。祖母の兄達が戦場に行ったのか、周りの人々の兄達が戦地に行ったのかよくわからないにしても、すぐさま家族のことを思うところに普遍的な何かを感じる。英語の学習に苦しんだと言うのは、びっくりしたけど、そんな昔から英語の勉強ってしていたものなのね。今の時代と変わらない。

印象的な一節。

いつか家族ぐるみで夜空の星のようにさんざめき、煌めきたいものである。夢のまた夢だと知りながら

夢のまた夢だと知りながら・・・。

次は自身の父母に向けて書いたものと思われるもの。いつの時代も、東西何処であっても、年齢を重ねたとて、母親は母親であり、父親は父親である。父母のいない人、戦争で亡くした孤児が多くあった時代にあって、何にも変え難い思いがあったと思う。

4/5

お父さん、お母さん

一度も書いたことのないお手紙を今始めて天国のお二人に捧げます。

お父さんお母さんほんとうにありがとうございました。〇〇二人の子供として生まれてほんとうに幸せでした

熱を出してねている時、何時もお母さんがそばについてくれましたね、いろりの火のように暖かいあなたでした。

又、私が旅立つ人生の節々には、何時もお父さんが駅まで見送りに来てくれましたね。女学校の寮に行く時、修学旅行に旅立つ時、結婚して横浜へ旅立つ時、大きな荷を背負って駅まで送ってくださいました。その時のあなたの心中を今思うと泪がこぼれます。

私も二人をお手本にして二人の男の子を生み育てました。幼な児の時は、お母さんの様に肌のぬくもりを感じるように、だいておんぶして育て、大きくなっては、早く自立させるよう心がけました。

おかげで二人共立派な社会人となり、それぞれ暖かい家庭を営んでいます。両家にそれぞれ二人ずつ男の子が居り立派に生長して今私たち夫婦の希望の星になっています。

お父さんお母さん二人の子孫は、立派にお二人の血を受けつぎその教えをそのぬくもりを伝えています。

あなた方お二人の子孫は、まだまだあります。〇〇の〇〇家、〇〇の〇〇家・・・(中略)、それぞれみなみな繁栄しています。

何をどう考えるかは人それぞれに。どう読み解くかは、どう受け取るかはその人次第。僕は・・・うまく消化しきれないほど、、、。