誰も読んでいないブログを書く。(読んでくれている人ありがとう、つまらない文章ばかりで申し訳ないと思う)
7月に入って梅雨真っ盛り。紫陽花が微笑んでる。
紫陽花っていうのは水色や紫、淡い色合いでどこか儚さも感じるようで美しいね。
雨で濡れて水が滴っている様子がよく映える。
でもよく観察すると、朽ちていく様子が他の花と比べて醜いんだ。
桜は美しく散っていくでしょう。自分の醜さを露呈する前に美しく散っていく。朽ちていく様子を見せないんだ。
でも紫陽花っていうのは真っ盛りの時期は綺麗なんだけど、時期が過ぎると見苦しく枯れていく。それがなんだか人間の醜さも模しているようで悲しい。
僕は朽ちながら死んでいきたくはないなぁと思う。でもそれが生き物としての、生命としての運命(さだめ)なのかなぁとも思う。
安楽死っていう考え方があって、死ぬ間際の見苦しい時期を回避して延命治療をしないこと。(安楽死にも色々あって、確か積極的安楽死と消極的安楽死があり、積極的安楽死はもはや自殺に近いので日本では否定的に捉えられる。消極的安楽死は、主に末期の病で死期が近い患者の苦しみを回避するため延命治療を行わないこと、だったと思う)
大学の時、生命倫理の授業で簡単に大枠だけ学んだけど、僕は安楽死(積極的・消極的安楽死両方ともに)っていうのは楽でいいなと思った。確かスイスでは積極的安楽死の法整備も進んでいて、末期の病に苦しむ患者が自ら死を選ぶことができるということらしい。日本からスイスに渡ってそこで安楽死を選ぶ人も一定するいるということだ。それは正しいのかどうなのか分からないにしても、高齢化社会の日本では重要な問題であることは間違いないが、もちろん一般的に議論されることはない。都知事選だってなんだって、国政選挙だってなんだって、安楽死を問題にした政党はあったのかな。民主主義っていうのは、間接民主制においては選挙で常に問題が争点化される。大きな問題に集約されるから、細かな問題はそもそも議論の対象にすらならない。残念なことだと思う。
愛するものの醜い姿を見るというのは、看取る方だって、もちろん見せる方であっても、心地良いもんじゃないんだから、それに金だって莫大にかかるのになんでそんなに生きるということを強いるんだろうってね。ミッシェル・フーコーはそれを「生の権力」、「生きさせる権力」といった。権力というのは、反乱分子を排除するときに使われるイメージがあるけど、現代社会ではそれが大きく異なって人を長く「生きさせる権力」として働いているって。生きたくもないのに長生きすることを強いる社会。健康的な食事を強いて、健康的な運動を課して、長生きすることを強いる。それが社会にとって都合がいいから。「fitter happier more productive」
でもどうだろう。僕らはそういった負の側面を見ないように、避けて通ろうとするけれど、避けて通ろうとすればするほど、避けて通ることはできなくなる。結局のところ大きく直面しないといけない問題なんだよ。高齢化の問題、介護の問題、安楽死の問題。人間の醜さの問題。それは生命そのものが孕んでいる苦悩の問題。それから逃れることはできない。生きるということは、そのまま苦しみも含んでいるから。一部の安楽死には賛成だけど、それは苦しみから逃れるということを表すわけじゃない。苦しみは直視しないといけない。そしてそこから、生きるということが輝きを取り戻す。紫陽花は朽ちていくその過程に、新たな生命をも包含しているから。これから安楽死の問題はさらにフォーカスされる時代が来ると思うけど(来なかったらまぁそれはそれでいいけど)、基本的には僕は反対の立場を取る。生きるということの本質は苦しむということでもあるから。そしてその苦しみから輝きが生まれるはずだから。苦しみを排除したらそれは生きるということを否定することでもあるし、生きる輝きを取り除くということを意味する。僕は保守的なのか革新的なのかよく分からなくなってくるけど、多分キリスト教の考え方に近いと思う。LGBTの問題にしても、聖書における記述があるかないかってやっぱり僕は重要だと思う。2000年も語り紡いで来た人間の叡智は生きるということの本質に根差しているのではないかと思うから。
都知事選がもうすぐあるらしい。
都民じゃないけど、石丸氏がどれぐらい食い込めるのかは気になる。
でも多分負けると思う。現職が勝つんじゃないかな。
橋下徹や石原慎太郎も結局うまくいかなかったから。
大衆は時に強力な権力者を待望するけど、
日本ではなかなか持続しない、というか抵抗勢力が足の引っ張り合いをするからうまくいかない。
でも無難な人がやるよりかは改革路線の人の方がいいと思う。
それにしても石丸氏の政策は見切り発車な感じがしてもう一歩革新性に欠けると思う。
政治再建・都市開発・産業創出
具体性にも欠けると色んな批判は覚悟の上と思うけど、どうなるだろう。
『AI(人工知能)で世論を集約して行政サービスの最適化を図ったり、SNSを活用した都政の「見える化」』
というのだけ興味がある。人工知能で世論を集約して行政サービスの最適化って面白い。でも具体案は示していないから特に決まっていないんだと思う。京都大学出身で優秀な人だと思うけど、どこまで具体的に考えているんだろう。
最初に掲げていた多極分散の考えは前面にはうち打ち出していなくて、チグハグな感じがするというか、合理的に考えてそれだと当選できないと悟ったのかな。確かに少子高齢化や日本の衰退を改善していくには東京一極集中を大きく転換する必要があるし、意味があると思うけど、それは都民ではなくって国政で国民に訴えかけるべき事だから、今回の選挙では大きく打ち出してない。でも、大枠の問題意識としてはもっともな事だと思う。東京一極集中が地方を逼迫させるし、しかも一極集中してる東京は出生率が下がってるわけだし、分散することがまず第一歩なんだろう。でもこれってだいぶ前から言われてたし、いつぞやの維新の会でも道州制を導入して人口を分散させるとか、大阪都構想で東京一極集中を分散させるとか、今までにも何度か問われてきたことだけど、そのどれもが実現しなかったし、その二番煎じのような気がしてしまう。結局うまくいかなかった大阪都構想が今回形は違うけど、東京解体の方向へ進むとは思えない。でも僕はその方向は正しいと思う。でもうまくいかないと思う。悲しいと思う。正しいことがそのまま実現されないというのはなんと悲しいことか。
なんていうんだろう、こういうことって他にも沢山ある。合理的に正しいことが全く実現されない。先例に倣ったことが正しくて、新しい考えが間違っているという固定観念があるからなのかな。時代が時代ならそんな間違った方向性に対して、若者が声を上げたりとか青年将校がテロを起こしたりとか、諸々あったと思うけど、現代社会ではそういうことは起こらないし、すべてが中途半端なまま浮遊している。残念だなぁ。とにかく。なんかそれを変えようという意思も湧いてこないよね。それは巡り巡って、心の底からメラメラ燃え出てくるような恋をしたい、ということに繋がるような気がする。(そしてそれは実現しない)
僕はこういう話をして何がしたいのかって思う。意味がないから。こんな無駄な言葉を紡ぐことになんの意味があるのか分からない。意味がないから。誰も読んでないブログになんの意味もないことを綴っていることについて嫌気がさしてくる。でももうそんなことでもうでもいいよ。100年後か200年後にそういう文化があったんだなってなればいいよ。