2024/8/13 おぼんこぼん

お盆休みに入ってまったりしておる。1週間の休みがあるので実家に帰って、といってもすぐ近くだ、母親と飯を食ったりオリンピックの試合を見たり本を読んだりもろもろ。

今日は朝起きて散歩がてらにコンビニまで行ってタバコを吸った。最寄りのコンビニが潰れてしまったので徒歩で10分ほどかかるようになってしまった。周りに喫煙所がなく駅前のドトールかローソンの喫煙所くらいしかない。実家は一軒家だから吸ってもいいんだけど、母親もいるし多少なりとも気が引けるので控えている。タバコを吸い始めたのは、実家を離れた2年くらい前で、大学の頃は吸っていなかったし吸おうともさらさら思わなかった。でも今ではかなりのヘビースモーカーになってしまったような気がする。

識者に言わせると、タバコというのは、「男性性の象徴」ということらしい。タバコを吸うことで男性らしさを誇示したいのか、タバコによって男性らしさを見出せないストレスを解消しているのか。男性らしさとはつまり性的な、女性への執着を表すといっても良い。僕の感覚では、周りの喫煙者を一瞥してみるに、それとなく女性への性的執着が強い人が多いような印象を受ける。漠然とした一般人のイメージとしても、喫煙者イコール不良というかはみ出しものであるし、さらにそのはみ出しものというのは、一部の引きこもりを伴うヲタクというのではなくって、まさしく家で少年少女のような不良グループであり、彼らには常に性的な異性が付き纏っているように感じられる。つまり喫煙者というのは、少なからず女性への、というか異性への性的執着の強さを表しているような気がするということである。

じゃあ自分はどうなるんだろうと考えてみる。僕は大学の頃まではタバコを吸わなかった。そして社会人になってから吸い始めた。というのはつまり、年を重ねてから異性への性的執着が強くなったということになる。一般的に言って性的欲望というものは年齢とともに減退していくものだから、どうも合点がゆかない。そもそも僕は、20代後半にかけて少しく体調を崩していたし、自分の感覚から言っても毎日のように朝立ちしていた高校時代と比べると、精力というものも衰えていっているとみて良い。とするならば、先ほどの仮説はさらに信憑性が失っていく。

うーん、でも僕の感覚としては、タバコ自体が性的な執着を表しているというのはあながち間違いではないような気がしていて、よくよく自分のことを考えていくと確かに矛盾する部分が多くあるのだけれど、それでもなんとはなしにその仮説がしっくりきているという不思議な感覚がある。こういう論理的矛盾を越えた感覚的了解(なんか哲学用語みたいだ)、というものが僕の中にはいくつかある。論理的に考えると明らかな矛盾だけれども、それでもそれを覆すほどの感覚的確信があって、言葉を尽くしても辿り着けない感覚的了解に包まれる。厄介なのはとにかく言葉で論理立ててうまく説明できないことだ。説明すればするほど矛盾が露呈してしまうようなものだから、説明するのをやめる。でも分かる人には分かるからそれでいいと思っていることもあるけど、でもこの感覚を他の人にも伝えたいし、それをなんらかの形で表現したいと思う。僕が小説かその他それに付随するものを書きたいと思わせる当のものというのは、そういう感覚が根底にあるからだと思う。

先ほどの話に戻れば、僕は性的な執着をある時期からより強く意識するようになったか、あるいはより強く解放するようになったのだと思う。大学時代の頃は自分の心の中に眠っていた欲望が外に出ていくようになった。性への欲望を心の中に溜め込んでいる人は、タバコは吸わない。もちろん性への欲望が強くない人もタバコをあまり吸わない傾向にあると考えて良い、それが強くても溜め込んでしまうとタバコを吸うようにはならない。でもどうだろう。よく分からなくなってくる。

僕はタバコを吸うのは良くないことだと思うし、世間一般から見たって有害なものに変わりはないのだから、やめるべきだっていうのは正論そのものなんだけど、僕がタバコを吸っているというのは、自分なりに何か心の中の欲望を認めることにつながっていて、それを正当なやり方で外に吐き出せているような気がするんだ。意味が分からないと思う、まさにさっき言ったことそのままになってしまったというか、話せば話すほど論理的矛盾を露呈するよね、こういうのって。僕も言っていてよく分からないよ。

まぁそれでね、僕は僕自身の性的な欲望をうまく認めることができない青年期を送ってきた。それはもう何とも表現しきれない悲しい青春時代だといって良いと思うんだけど、というかそのまま抑制的な人間として生きるべきだったのかもしれないけど、自分の中で何かが解けていったというか、殻が破れていったというか、氷河が溶け出していったというのが正しいかもしれない、僕が忌み嫌っていたものを少しずつ受け入れることができるようになった、ということかもしれない。それぐらい僕にとっては性的な欲望というものが下品でいやらしく汚らしいものとして認識されていたということだと思うし、それは多分どこからか引き継いだものなんだとも思う。カルマといったらいいのかもしれない。人というのは生まれてから何かしらのカルマというものを背負っているって聞いたことがある。ギャンブルに悩む運命の人もいれば、アルコールに飲まれる人生を歩む人もいるし、貧困や差別をその本質としている人も、恐らくいるのだろう、その人が背負わなければならないカルマ。それは乗り越える運命にあるというポジティブな捉え方もできるけど、それよりも乗り越えられずに苦しみ続けるとも取れるし、僕に関していえば後者そのままなわけだ。でもそのカルマは解決しないといつまでも僕らのことを追いかけ続けるもので、まさにカルマだから、そもそも僕が解決できなければ、それは僕の子供たちに受け継がれる、つまりこれらのカルマは先祖から受け取ったものでもあり、彼らが乗り越えることのできなかった本質的な課題でもある。でも僕が解決できないとして、現に全く解決の糸口すら見つけていない、僕に子供ができなかったらどうなるんだろう、あるいは明日地球に隕石が墜落して吹き飛んでしまったらどうなるんだろう、という素朴な疑問はあるが、ともあれ僕の大きなカルマとして、そういった問題があるということを了解しておこう。

つまりタバコの件に関していえば、僕なりの感覚的了解に基づいて行なっている行為であるので、批判は受け付けない。辞めるべき時が来れば、そういうお告げが来るはずだから。そういうお告げが訪れずに肺がんになったとしても、それはそういう運命にあった、カルマがそうだったとしか言いようがない。僕はそれに抗うことができない。なんだか自己肯定の道具に小難しい言葉を利用しているに過ぎないと言われてしまうと思うが、まぁそれでも構わない。僕は現状タバコをやめる気はない、以上、終わり。

Radiohead/Karma Police

またRadioheadの曲になってしまった。別にこれを紹介したいと思って書き始めたわけじゃないけど(今日の穏やかな日常を書こうと思ってた)、カルマでピンときた。僕の思想の多くの部分が彼らの音楽に負っている、というかなぜだか共鳴する。そういう音楽ってあるよね、時として頭の片隅から急に蘇ってきて、あの曲のあの部分は今僕が現に感じ取っているこの感覚のことを言っていたんだ!ってね。僕らの共感を誘おうとしているわけじゃない(これはすごく重要だ!)けど、結果として不特定多数の人が共鳴できるような音楽。良い音楽っていうのは深い心の奥底の、人間の普遍的な何か共通する部分に語りかけて、意識できるかできないかの混沌とした感覚に光を当ててくれるんだ。表面的な感動を誘うお涙頂戴の低俗な音楽とは大きく異なる。

あと凛として時雨にも「Karma Siren」って曲がある。凛として時雨は少なからずRadioheadから影響を受けてると思うけど、この曲のタイトルはどうなんだろうなぁ、Karma Policeは知らないわけないから、多分インスパイアを受けてるということも含めて似せたタイトルにしたのかな。でも歌詞はそんなに深くない(笑)でも近しい何かは感じるから、おおもとの部分では共鳴しているんだと思う。