季節の変わり目になって、朝晩が少しく肌寒くなる。ツクツクボウシの鳴き声を聞くと、夏も終わりだなぁと思う。夜中になると鈴虫の声がひっそり聞こえてくるのもまた、季節の流れを感じさせる。緩やかに、少しづつ僕の周りが変化していく。刻一刻と、そして着実に、空の色が変化していく。夏の空と、秋の空、それは同じものを指しているはずなのだけれど、全く異なっている。「女心と秋の空」というのはイマイチ僕の中でしっくりこない言葉の一つだ。秋の空はそんなに変わりやすいものだろうか。どちらかというと夏の急な大雨やゲリラ豪雨の方が、女性の感情の起伏が激しい突発的な感情を表しているような気がする(失礼)。でもそれは男も同じじゃないか?もともとのことわざとしては「男心と秋の空」だったらしい。それがいつからか「女心と秋の空」に変化していったとか。
女性と口論になった時、だいたい僕は口喧嘩で勝てない。口が達者な女性でスイッチが入った時に、僕の弱いところを突かれると、何も返せなくなってしまう。情けないと思う。「ごめん」という素直さもないから、何も言わずに斜め上の秋の空を眺めることしかできない。「なんで何も言わないの?」とさらに追い打ちを掛けられても、僕の頭には空白しか浮かばない。論理を無理くり構築しようとしてもすぐに崩れ去っていくから、全く関係ない比喩表現を使って時間を稼ごうとする。「例えばさ、それっていうのは他のことで言うと、こう言うこと・・・?」苦し紛れの言い訳を考えながら何とか論点をずらしていく。嫌な自分だなぁと思う。
去年よく彼女と喧嘩をしていた。そんなことを思い出すと、また悲しみが募ってくる。しばらく考えないようにしていたけど、ふいに思い浮かべてみると、涙も同時に浮かんできてしまいそうだ。キミと行った思い出の場所、それはデートスポットというより、何でもない電車のホームだったり、何気なく歩いた街路路、一緒に眺めた星空、流れ星、、、
でも涙が、悲しみそのものが、浮かび上がってくる寸前で考えるのをやめる。悲しみそのものを受け止めるのが怖いから。僕はいつの頃からか、僕の感情と縁を切ってしまったんだと思う。感情そのままを受け止めることができなくなってしまった気がする。素直になれていない。涙を流せなくなってしまった、悲しみを浴びて自分の至らなさに触れるのがどうしてもできないから。
すんでのところで止める涙、それはどういう感情の涙なんだろう。悲しみの涙、でもどういう類の悲しみなんだ?一緒にいたかった涙なのか?最後まで一緒にいられたらよかった、電車のホームで、最後に見たキミの涙が忘れられない。多分一生忘れられない、あの光景を思い出すたびに僕は悲しみでいっぱいになる。どうして僕はキミをそんなに悲しませてしまったんだろう、最低な人間なんだというのがよく分かる、この世でもっとも悲しい光景の一つだった。もうあの光景を目にしたくない、そのぐらい苦しかった。電車が出発して、キミがベンチに一人座って涙を流しながら僕が去っていくのを悲しそうに眺めている姿が、僕には耐えられなかった。すぐに戻ってキミのことを抱きしめるべきだったかもしれない、そうするべきだったよ、普通のナイスガイな男だったらそうしていたよ、僕は何もできずに電車の中で一人佇んで、そのまま家に帰って寝た。情けない男だって、自分はそういう情けなくてどうしようもない男なんだ。はぁ。
キミとの喧嘩の内容を思い出す。そのどれもが、その全てが、僕のせいだったと思う。今思い返すと本当に自分は酷いことを言ってしまったと思う。何であんなこと言ってしまったんだろう、そんなことを言いたかったんじゃないのに、その時思ってもいなかったことが不意に言葉に出てしまった。それで相手をどんなに傷つけてしまったことか。言葉は刃だ。ほんの一言でも相手の心を切り裂いてしまう。その度に僕はよく謝っていた。口喧嘩してすぐには何も言い返さなかったけど、ほとぼりが覚めたらとにかく謝っていた。情けないと思った。だって謝るくらいなら最初からそんなことは言わなければいいのに。
こんな情けない自分と付き合っているキミに同情さえした。何で僕と付き合っているんだろう、こんな辛い思いをして僕と一緒にいる理由が僕にはよく分からなくなっていた。僕といることですこぶる不幸になっている彼女を見て僕は何とも言えない感情になるのだった。その時は僕のことが好きだといってくれていたけど、本当に僕のことを好きでいてくれているのかよく分からなかった。それはつまり、自分のことが好きではないのに人のことを好きになれないということだと思う。
僕は僕のことが好きではないのだと思う。僕の僕ではない部分が好きではないから。僕の僕である部分だけが好きなのであって、僕の僕ではない部分は僕ではないとしているから、僕が僕ではない。そして僕が僕ではないから、、、人を真剣に好きになることができない。それはどうすればいいんだろう。僕の僕でない部分を好きになればいいのではないか、論理的にはそうだ、理論上はそうだ、机上の空論だと思う。
僕は僕の分析を繰り返す。頭の中で何が起こっているのかを紐解いていく。そしてその結び目ができないような改善策も考えてみる。でも実際にそれを自分の手で実際に再現してみることはできない。頭では分かっているけど、目の前でそれを再現することができない。自然に流れに身を任せることができない。常に頭の流れと自然の流れが交差しない。
僕は自然な時の流れに身を任せることができない。現実の時の流れ、それらは常に僕を追い越していく。いつだって僕が追いかける立場だ。今僕はまだ夏の真っ只中にいて、お盆の大型連休をまだ彷徨ってる。季節が僕の前を通り過ぎて、僕を待ち構えてる。「今日も遅れてごめん」って遅刻してしまった友人に謝っている時にもそれは感じられる。いつも僕は何者かに遅れを取ってるんだ。それは周りの同年代の時の流れでもあるんだ。兄貴の結婚式があって、今度は友人の結婚式があって、SNSでは土日に楽しく旅行を満喫している新婚の人らが僕の先を走ってる。そんな写真を見るたびに「ごめん、まだそこには行ってないや」っていつも謝りたい気分になる。いつまで経っても僕は海のど真ん中に取り残されて、誰かからの救助を待っている。
また朝が来た。僕の中ではまだ夜なのに。誰か僕のことを見つけて。。。