実家に引っ越した。しばらく一人暮らしをしていたのだが、そろそろもう良いだろうという気になった。
環境を変えれば何かが変わると思った。もちろん何も起こらなかった。それよりもさらに厄介な問題も起きた。部屋が汚くなった。掃除がめんどくさかった。埃まみれになった、カビだらけになった。僕の心も荒んでいった。
実家に戻ればまた何か変わるのではないかと思った。もちろん変わらないのだと思う。でも金銭的な面でも戻った方が良かったし、母親のこともあるしまぁ自然の成り行きなんだと思う。僕が何をしてあげられるのだろうか。僕は僕のやるべきことがよく分かっておきながら、何もしていないということへの苛立ちが募ってくる。僕は僕のやるべきことがわかっておきながら何もやっていないということへの苛立ちが・・・
僕はインターネットのない世界を想起してみる。それで豊かな平和な日常が戻ってくるだろうか。30年前はスマホがなかったしパソコンも普及してなかったしSNSはもちろん、あらゆる電子機器や電子メデイアが存在しなかった。SNSの誹謗中傷やその他陰謀論、稚拙な合理主義等々の情報の洪水に侵されている僕らからすると、なんて幸せな世界なのだろうと思うかもしれない。僕はそんな時代に生きてみたかったと思う。もっというと学生運動の時代に生きてみたかった。日本に活気があってイケイケどんどんな時代、それはもちろん将来に希望を持って生きていくことができるということもそうだけれど、もっと現在に、今を生きることができているような気がする、そこに幾つかの危うさや負の側面が常に隠されていたとしても、僕が今生きているこの時代よりもはるかに、今を生きているんだって。「人生とは今日1日のことである」と誰かが言った。僕らは今日1日という人生を生きることができなくなっている。僕はそう思う。それは誰のせいか?もちろん誰のせいでもない。強いていうならば、僕のせいだ。戦う相手が明確にない戦い。独裁者のいる時代は良かった、資本家のいる時代は良かった、戦う相手が明確に顕在化されているじゃないか。僕らは何と戦っているんだ?僕自身と戦っている。滑稽なことだよ。僕も資本家と罵り合いたかったし、デモ行進に励みたかった。
そんなことはどうだっていい。僕はインターネットについて考えている。インターネットがあることによって僕らの記憶がより不鮮明なものになってはいないだろうか。それはつまり、物事を記憶する必要がなくなってしまったのではないかということである。すべてはインターネットに書かれている、覚える必要がない。僕は職場までの道のりを、ほとんどインターネットに頼っている、電車乗り換えアプリを使って調べていくので時刻を覚える必要はない。職場の住所についても覚える必要はない、インターネットに記録されているから。いやもちろんすべてをネットに頼っているわけではないにせよ、だいたいのことがインターネットに載っているので、詳しく覚える必要性がない、ということは鮮明にすべてを記憶する必要がない。それはそれで便利な社会だ、煩わしいことを頭に入れておく必要がないから、でもそれによって忘れ去ってしまう記憶の・・
僕は誰かを遠ざけようと必死になる。誰かに遭遇しないように遠回りして駅まで向かう。直線距離を進めば良いのに、あえて時間のかかるルートを使って進む。それは僕の忌むべき存在に遭遇しないようにするためだ。なるたけ僕は僕の忌み嫌うものに直面しないように生きる。僕は僕自身の影を踏まないように慎重に歩を進める。出来るだけ慎重に、細やかに計画を立てて、間違いを犯さないように・・・。でもその実、忌むべき存在が一体どうものかということを僕は知らない。もしかしたら本当は存在しないのかもしれない。しかし僕はまっすぐ進むことができないし、前を直視して歩くことができない。斜め前を向きながら、人目を避けながら斜めの方向に進む。どうしても真っ直ぐ目を見開くことができない。なんでそんなことをするんだろう。僕は何に遭遇するのがそんなに怖いんだろう。僕は考えることをやめる。思考停止。
僕の愛はそれは本当の愛なんだろうか。僕が君(誰のことでもない)のことを好きだとして、それは真実の愛だと思うか?真実の愛は自ら真実の愛であることを証明できるのか?僕は僕のことを証明できるのか?愛はどうやって愛になるんだ?君のことが(誰のことでもない)好きという気持ちがどんどん薄れていくというよりも、それが真実の愛だという確証が得られない。単なるマヤカシなんじゃないかと思う。僕は洞窟の中に一人取り残されて、後ろから火で照らされる。壁に投影された影たちの踊りを僕は真実かのごとくまじまじと見つめる。でもそれははたから見れば単なるマヤカシなんだ。壁に投影されている影にすぎない。本当の愛は壁に投影される前のとうのもの。目の前にある影なんかじゃない。そう考えてみると僕の考えるすべての愛が、壁に照らされたガラクタのように見えてくる。すべてはデタラメでガラクタなんだ。真実の愛なんて僕らには知覚することができないのではないか。少なくとも僕が生きてきたこの方30年で一度も目にしたことがない。もうたくさんだ。