先ほどから、やけに右の手首が痛む。何でだろう。特にぶつけた覚えはないし、捻った記憶も特にない。運動もしばらくしていないし、無理な態勢をとったこともない。もしかしたら寝違えたか?というのはあるけど、寝違えると言えば首だと思う、右手首を寝違えましたっていうのは一度も聞いたことがない。どうしたんだろう。
最近体のどこかに不調を感じるときに、決まって引っ張り出す本がある。精神医学の本というかまぁスピリチュアル系の本なのだけど、これがそれなりに面白い。体の不調を感じる場合は、一般的には物理的な問題をまず考える。どこかにぶつけた、不自然な態勢をした、とかもろもろ。風邪を引いた場合は、その原因を外部に探す。インフルエンザなら、人の多いところに行かなかったか、周りで風邪を引いている人はいないか、など。大体はそれで問題が解決するのだが、僕が考える身体の不調というのは、より精神面に近しいものだし、簡単に解決しない慢性的なものだ。特に精神疾患、うつ病や不眠症なんかはその際たる例で、物理的な要因も外部からの要因もないのにも関わらず、慢性的に続く病、それを遺伝的なものだと関連づけようとする人もいるけど、特に意味がないと思う。思うに、それらの慢性的で精神的な病というのは、他でもない、その人自身が自ら引き寄せている病気にすぎない。そこには精神的な要因が多くの部分で関わっており、心の問題を解決することによって、それらの身体的な問題は解決するのではないかと思う。それは科学ではなくって、もはや宗教と言わねばならない(なぜなら科学は心と身体を分けることによって発展しか学問だから。心と身体を一体のものとして捉えるのは科学ではなく、東洋医学、精神医学、いや、宗教とした方が良さそうだ)。信じるか信じないかはその人次第である。
今しがた気になった僕の手首の不調について、本の一節を引用してみる。
手首のトラブル
手首というのは、前腕と手を結びつけている関節のことです。この手首の関節はとても複雑で繊細なので、トラブルが頻繁に起こります。「痛み」「捻挫」「骨折」などが多く発生します。
あらゆる関節は、その人の「柔軟性」に関係しています。したがって、手首の関節にトラブルが起こっている場合も、同様です。手を使って奉仕することに関して、柔軟に対応できていないのです。能力を十分に発揮できていないのではないか、または、間違えるのではないか、という恐れに支配されて、本来なら自分にとって嬉しいはずのことを、手を使ってやることができずにいるのです。
(中略)
からだからあなたへのメッセージはこうです。「あなたの考え方はあまりにも厳格すぎます。自分がやりたいと思っていることは、自分には無理だ、そんなことをやり遂げる能力は自分にはない、とあなたが考えているとしたら、それははっきり言って間違っています。一方で、あなたがやることを通して、誰かがあなたを利用している、とあなたが考えているとしたら、それもまた間違っています。あらゆる仕事は、恐れや罪悪感、見返りへの期待とともに行われるべきではなく、愛の思いとともに行われなければなりません。もし右手の手首にトラブルが生じていたのなら、それはあなたの与える能力に関わっており、左手の手首にトラブルが生じたならば、それはあなたの受け取る能力に関わっています。いずれにしても、あなたはこだわりを手放して、愛の思い、受容な気持ち、感謝の念とともに行動すべきなのです。また、他者からの支援や指導も素直に受けましょう」
リズ・ブルボー 著作より
記述は時に曖昧でいかようにも取ることの出来る文章となっており、自分の現状に当てはめることができるか、定かではない。ただ一部は的を得ているように思う。太字の部分は僕自身多少なりとも思い当たる節がある。だからと言ってすべてがすべて正しいというわけではないけれど、他にも幾度も自分自身の行動や考え方について、深く考えさせられることがあった。それを信じるかどうかはその人次第なのだけれど、一考の余地はあると思う。
もう一つ、僕自身が以前悩んでいた「乗り物酔い」について。「乗り物酔い」と言ってもそれはただの体質でしかないわけだし、身体の不調や病気とは思えない気もするが、元々僕は乗り物酔い自体ほとんどしたことがなかったし、車でも電車でも飛行機でも(船は酔ったかもだけど)、ほとんど酔った記憶がなかったにも関わらず、一時期を境に乗り物酔いをするようになって、特にディズニーランドの乗り物で酔った時はひどくテンションが下がったものだ(彼女に迷惑をかけた)。そこで気になって読んでみた一節がこちら。
乗り物酔い
乗り物酔いとは、自動車、バス、電車、飛行機、船などに乗った時に発生する症状です。乗り物のさまざまな動きが原因となって、顔が青くなったり、冷や汗が出たり、吐き気がしたり、実際に吐いたりします。「吐き気」「嘔吐」「無気力」「頭痛」の項も参照してください。
乗り物酔いになる人には、ほとんどの場合、何かまたは誰かを失うことを恐れています。新しい状況にはまり込んでしまって、そこから抜け出せなくなるのではないか、と考えるのです、そして、必死になって全てをコントロールしようとします。今という瞬間に生きることができず、今この瞬間の喜びを噛み締めることができないのです。
カラダからのあなたへのメッセージはこうです。「すべてをコントロールしようとするのは、もうやめましょう。そして、おそれを表現することを自分に許してあげるのです」というものです。興味深いことに、乗り物酔いは、その人が一人でいる時には、ほとんど起こりません。乗り物酔いになっている時に、あなたの心の中に何が起こっているか観察してみてください。あなたは誰かを信じられずにいるのではありませんか?その人が、あなたに解決方法を示すことができず、あなたの疑問に答えられないと思っているのではありませんか?他の人があなたのためにしてくれること、あるいは決めてくれることをもっと心を開いて受け入れましょう。こだわりを手放し、周りの人々を信頼し、宇宙を信じましょう。宇宙を信じれば、宇宙はあなたの面倒を必ず見てくれます。
リズ・ブルボー 著作より。
最後の一節について、僕は一時、よくよく考えていた。「宇宙を信頼しなさい」という言葉が僕の頭の中で何度もこだまする。どうしてか分からないが、頭の中にこべりついて離れない。「この宇宙を、大地を、この世界を、信頼する?」というのは一体どういうことだろう。信じるとはなんだろう。信仰とはなんであろう。僕は信じるというこのの意義について考えてみる。
「希望することが実現する、と確信すること。見えないものが存在する、と確信すること」
信仰するというのは、「見えないものがあると確信すること」と聖書は教えている。僕は見えないものがある、と確信することができるだろうか。目の前に存在しないものが、手で触れることも目にすることも共有することも何もできないものが、そこに存在する、と確信することはできるだろうか。愛は存在する、と確信できるだろうか、神は存在する、と、この世ならざる超越的なものが存在する、と確信できるだろうか。愛も神も何もかも、全ては目に見えない手に触れることのできないものである、がゆえに信仰の対象ともなる。信じるというのは目に見えないものに対してのみに成立するのであって、目の前にあるリンゴがあると信じるとは誰も言えないわけである。ないものがあるからこそ、信仰は成り立つ。人間が不完全であるからこそ、信仰が芽生える。そう考えると、信仰というのは、不完全なこの世の中を生きる不完全な人間が取れる最後にして最大の武器ではないだろうか。僕ら不完全なものにしかできない、最後のそして最も強力な武器が、「信じる」ということなのではないだろうか・・・。僕は何を言っているのだろうか。
印象に残った一節を引用する。
ある小さな村が、旱魃に襲われました。このままでは作物の収穫が非常に危ぶまれます。日曜日のミサの後で、村人たちは神父に相談しました。
「もうひと月も雨が降っていません。何か対策を立てないと、このままでは作物が全滅です」
それに対して、神父はこう答えました。
「信仰とともに祈りなさい。信仰とともに祈る必要があるのです。いいですか、信仰なき祈りは、祈りのうちに入らないのですよ」
農民たちは、一日に三度集まって、雨が降るように祈りました。次の日曜日に、みんなは一緒に神父に会いに行きました。
「神父様、どうもうまく行きません。毎日みんなで集まり、雨が降るように祈っているのですが、なかなか雨が降らないのです」
すると神父が尋ねました。
「あなた方は、本当に信仰を持って祈っていますか?」
「はい、そうしています」とみんなは答えました。
神父はそれを聞いてこう言いました。
「私はそうは思いません。あなた方が本当に信仰を持って祈っているとは思えないのです。その証拠に、あなた方のうちの誰も、今日、ここに傘を持ってきていないではありませんか」
(中略)
「信仰は、山をも動かすのです。あなたの内なる神は、宇宙全体にあるすべてのもの、あらゆる惑星にあるすべてのもの、地球にあるすべてのものを統御している、普遍的で偉大な力と繋がっています。周りをちょっと眺めてみてください。人間の手が触れていない大自然の調和された美しさを見れば、神を信仰する気持ちはますます増大するでしょう。星のきらめく静かな夜空、無限に広がる大海原、夕日の荘厳な美しさを前にして、あなたは敬虔な気持ちにならないでしょうか。宇宙は完全に調和されています。朝日が毎日昇り、月が姿を現わし、惑星が空間を整然と運航し、塩はリズミカルに干満を繰り返しています。神の大いなる計画がこうした大調和を醸し出しているのです。あなたもまたその大調和の一部をなしていることに、是非とも気づいてください。」
リズ・ブルボー 著作より
JYOCHOという知る人ぞ知る奇抜なアーティスト。複雑なギターの音に、フルートの可憐な音が鳴り響く。この曲は、何か「信じる」ということについて、考えを巡らせてくれるような気がする。ただそれは「考える」ということであって、「確信する」ということとはまた大きく隔てた場所に立っているような、そんな気もする。
見えないなら、見えなくてもいいのかな
生きて繋ぐ それは円になって証になる?
JYOCHO /pure circle