神に祈りを捧げたところでどうにもならないということは僕自身がよくわかってる。
意味がないこともよくわかってる。
行動を起こさなきゃっていうのはよく分かってる。無意味に祈ったところで何も起こらないんだって。
何の啓示も得られないのはどうしてだ。
僕は僕自身に絶望している。社会に絶望している。この国に絶望しているし、この世界自体にも絶望しているのは疑いようがない、それでもやっぱり僕自身に絶望している。
僕の能力を発揮し切ることができないこの社会に絶望している。傲慢な態度を取り消す気はない。
社会のせいだ、この社会矛盾たる僕自身を君たちは如何様に解釈するんだ。
僕は社会が悪いと思ってるし僕は悪くないと思ってる。この世の中が悪いと思ってる、すべてはこの社会を爆発することによって解決するのではないかと思う。革命思想を持ち合わせている。でもそれが実現されることはない。
胸に手を当てて、祈りを捧げる。それは何に対してか。神か、仏か、それは定かではない、僕は何に対して祈りを捧げているのか判然としない。それでも祈りを捧げる。
すべてを無にして、祈りを捧げるときに、僕の頭の中に浮かぶもの、それこそが僕の僕たる所以となる当のものではないか。僕はメガネを外して(普段はコンタクトだが、寝る前は眼鏡をかけている)、パソコンの脇にそれを置く。両手を前に出して手を組む。手を合わせるのではなく、組むようにする。そちらの方が力が入るし、祈りを集中して捧げることができる。組んだ両手を、少し傾けた額の前につける。目を瞑って何かに対して祈りを捧げる。それは誰かではなく、神でもなく仏でもない、超越的な何かに対する祈りにようであり、神の対する祈りのようでもあり、仏に対する祈りでもあるようである。
その最中僕は考えることをなるべくやめる。僕の感性に全てを委ねてみる。そこに浮かび上がってくる映像に、訴えかけてくる感覚、隠されたメッセージに、解読不可能なメッセージ(それは言葉ですらない、メッセージですらない、感情や感覚のうねり程度のものかもしれないし、香りかもしれないし味覚かもしれないし、そもそも知覚できないものかもしれない)に、集中する。何かが浮かび上がってくるか、何か感覚の一欠片のようなものが感じられるのか、どのようなものか分からないにせよ、そこに神経を集中して注いでいく。
特に何も浮かんでこない、今日は何もなかった。浮かび上がってくることもあれば(ちなみに未だに浮かび上がってきたことは一度もない)、何もないこともある。今日はなかった。僕は何者にも選べれなかった。誰からも必要とされなかった。告げるべき啓示がないらしい。それはそれで一つの啓示だろう。
一つ確実に言えることとしては、眠くなってきた、ということだろう。眠ることにする。おやすみ。