名だたる世界の文豪たちは、自らの思想・信条を小説の中の登場人物に語らせる。彼らの言葉を借りて、社会を批判し、既存の固定観念に異議を唱え、自分の考え方を表す。ただ単に自己の思想を主張するよりも、彼らの言葉を借りた方が真実味があり、リアリティーを持って伝えることができる。
長編小説の一部を抜粋して論評することは、いわば切り抜き動画のような文脈によらない軽薄な批評となってしまうため、あまり適切とは思われないが、それでもその文豪の主義・主張や問題意識などが最も明確に表れると感じられるし、読者の共感・反感も最も得られる箇所であり、そして僕自身の考え方や思想も改めて浮き彫りにすることができるような、自分自身の生き方や死生観などを問い直すきっかけになるような気がするため、あえて抜粋してみようと思う。ただ原文を読むのがやはり望ましい、ということは付け加えておく。
まず村上春樹の『海辺のカフカ』から。
彼の小説は「途方に暮れた現代人、特に人生の生きる意味を失いかけた若者は、いかに生きるべきか」という内容を本質的なテーマにしているような気がする。もちろん多種多様なテーマや主張や思想信条も垣間見れるし、『海辺のカフカ』の後半では、若いトラック運転手をいわばメインキャラクターに据えることで社会から光を当てられることが少ないアンダーグランドな若者にフォーカスしており、多様な生き方を肯定しているように感じるし、印象的な大島さんのフェミニストとの対話では、男女平等という理想といびつな現実との矛盾をリアルに描くことで、男性と女性の複雑な問題に改めて光を当てている。
ちなみに僕は未だにLGBT等の男女平等の考え方に甚だ疑問を感じている。男と女を分けないということこそ大きな矛盾ではないか?女性は男性の真似事をすることによって、理性的であろうとすることそのものによって、女性的な、人間的な美しさを失っているように感じられる。男と女を分けない、男でもあって女でもある、というのは実に構造主義的で現代アート的で革新的で、何か新しい真実味を帯びた思想のように感じるけれど、僕には自分の立場をハッキリさせない曖昧な矛盾をただ曝け出しているだけのように感じる。僕は男であって女ではないし、女性に興味を持つし、女性からの賞賛を受けるべく、男性的に振る舞うし、それが人間らしいと感じる。
まぁその問題は賛否あってどちらが正解かということは枠に置くことにして、
物語のクライマックスでは、他の作品でも同じように、悩める若者の主人公が(ここでは15歳の少年が主人公だ)、「人間の生きるということそのものの本質的な矛盾」にぶち当たり、それをどうやって切り抜けていくべきか、という問題にとことん苦しむ。一人ではどうやってもその壁を乗り越えることはできない。『ダンス・ダンス・ダンス』でもそれが顕著であり、羊男に「踊るんだ」と諭されるところは物語のクライマックス、村上春樹作品それ自体のクライマックスと考えてしまうくらいの印象的なシーンだ。同じように『海辺のカフカ』でも主人公の最も本質的な問いが現れる大きなクライマックスが存在し、その一部を引用してみる。
「僕はどうすればいいのか、まったくわからなくなっている。自分がどっちを向いているのかもわからない。なにが正しく、なにがまちがっているのか。前に進めばいいのか、うしろに戻ればいいのか」
「僕はいったいどうすればいいんだろう?」と僕はたずねる。
大島さんはやはり黙っている。返事はかえってこない。
「なにもしなければいい」と彼は簡潔に答える。
「まったくなにもしない?」
大島さんはうなずく。
「だからこそこうして君を山の中につれていくんだ」
「でも山の中で僕はなにをすればいいんだろう?」
「風の音を聞いていればいい」と彼は言う。
「僕はいつもそうしている」
僕はそのことについて考える。
大島さんは手をのばして、僕の手に優しくかさねる。
「いろんなことは君のせいじゃない。僕のせいでもない。予言のせいでもないし、呪いのせいでもない。DNAのせいでもないし、不条理のせいでもない。構造主義のせいでもないし、第三次産業革命のせいでもない。僕らがみんな滅び、失われていくのは、世界の仕組みそのものが滅びと喪失の上に成りたっているからだ。僕らの存在はその原理の影絵のようなものに過ぎない。風は吹く。荒れ狂う強い風があり、心地よいそよ風がある。でもすべての風はいつか失われて消えていく。風は物体ではない。それは空気の移動の総称にすぎない。君は耳を澄ます。君はそのメタファーを理解する」
村上春樹. 海辺のカフカ(上下)合本版(新潮文庫) (pp.575-576). 新潮社. Kindle 版.
「僕はどうすればいいのか、まったくわからなくなっている。自分がどっちを向いているのかもわからない。なにが正しく、なにが間違っているのか。前に進めばいいのか、うしろに戻ればいいのか」
という言葉はまさに悩める若者の言葉そのものを指しているし、もしかしたら著者自身も若い頃にそういった苦しみを肌で感じていたのかもしれない。それぐらいリアルに直接的に表現しているし、それらが僕らの共感を誘う。僕自身高校の頃に悩み苦しんでいた「生きる苦悩」のようなものがすぐさま思い出されるし、そういった問題はただ自分が弱い心を持っていて自分だけがこんな苦しみを感じているんだと思っていた。その悩みを誰にも表出することはできずに、自分の頭の中だけで考えていた当時の自分を思い返し、そういった考えが自分だけではない「ありふれた問題」なんだというように感じることで、何か自分の一つの救いのように感じられた。サルトルの『嘔吐』にも似たテーマが含まれているような感じがするが、こちらの方がより明確で分かりやすい形で提示されていると思う。そもそも「人間の生きる意味とは何か」というのはギリシャ哲学以来、多くの哲学者が考え続けていたテーマでもあり、ハイデガーなども「存在とは何か」に答えることで「生きる意味」への答えを模索していたと思われるが、そのどれもが抽象的で凡人の僕らには、日本人の僕らには到底理解できないような内容である。それを日本人として日本人に分かりやすく噛み砕いて、日常的な会話の中でそれらへの回答を提示しているのは非常に貴重なことだと思うし、僕はこれらの回答が錚々たる哲学者たちと比べても遜色のない、いや西洋哲学を乗り越えた先の回答であるような気もする。
まぁとにかく、それに対する回答(解答とどっちを使えばいいか分からない)をどう用意しているのか。ここでは中年男性で主人公の道標のような存在となっている大島さんが答えている。これは村上春樹本人の若者への一つの回答のように感じられる。彼の生き方や人生観を登場人物の言葉を借りて語らせている。
「風の音を聞いていればいい」
「いろんなことは君のせいじゃない。僕のせいでもない。予言のせいでもないし、呪いのせいでもない。DNAのせいでもないし、不条理のせいでもない。構造主義のせいでもないし、第三次産業革命のせいでもない。僕らがみんな滅び、失われていくのは、世界の仕組みそのものが滅びと喪失の上に成りたっているからだ。僕らの存在はその原理の影絵のようなものに過ぎない。風は吹く。荒れ狂う強い風があり、心地よいそよ風がある。でもすべての風はいつか失われて消えていく。風は物体ではない。それは空気の移動の総称にすぎない。君は耳を澄ます。君はそのメタファーを理解する」
最後の大島さんの文章は圧巻であり、彼の作品の中でも最も印象的な文章の一つ、のように僕は感じられる。人間の生きる苦しみ、若者特有の自我の悩みは、そもそもの生きるということそれ自体の宿命であり、僕らのせいではないということ、そしてそれらは僕らを生み出した自然の中から読み取れるということ。人間と自然は一体であり、僕らは自然の中から生まれ、そして自然に戻っていくというプロセスの中を通り過ぎていくに過ぎないということ。
「僕には生きるということの意味がよくわからないんだ」
彼女は僕の身体から手を離す。そして僕の顔を見あげる。手を伸ばして、僕の唇に指をつける。
「絵を見なさい」と彼女は静かな声で言う。
「私がそうしたのと同じように、いつも絵を見るのよ」
彼女は去っていく。ドアを開け、振り向かずに外に出る。そしてドアを閉める。僕は窓辺に立ち、彼女の後ろ姿を見おくる。彼女は足早にどこかの建物の陰に姿を消してしまう。僕は窓枠に手を置いたまま、彼女が消えてしまったあたりをいつまでも眺めつづける。彼女はなにか言い忘れたことを思いだして、また戻ってくるかもしれない。
でも佐伯さんは戻ってこない。そこにはただ不在というかたちが、くぼみのように残されているだけだ。 眠っていた蜂が目を覚まし、僕のまわりをしばらく飛びまわる。そしてやがて思いだしたように、開いた窓から外に出ていく。太陽は照りつづけている。僕は食卓に戻り、椅子に腰掛ける。テーブルの上の彼女のカップには、まだ少しハーブ茶が残っている。僕はカップには手を触れず、そのままにしておく。そのカップは、やがて失われるはずの記憶の隠喩のように見える。
村上春樹. 海辺のカフカ(上下)合本版(新潮文庫) (p.761). 新潮社. Kindle 版.
こちらは同じ『海辺のカフカ』で、ここでも「僕には生きるということの意味がよくわからない」と「生きる意味についての問い」が出てくる。その問いへの回答だが、先ほどの大島さんとは違い、佐伯さんという女性に語らせており、別の視点から生きる意味についての回答を提示している。
「絵を見なさい」
という言葉に集約される回答をどう読み解くのか。それぞれの判断に委ねられている。先ほどの回答とは異なっており、矛盾しているように感じるかもしれない。それに彼の他作品では同じようなテーマで書かれた箇所がいくつか存在する。
『ダンス・ダンス・ダンス』では「踊る」、
『風の歌を聴け』ではまさに文字通り「聴く」、
今回の『海辺のカフカ』では「風の音を聞く」そして「絵を見る」
それぞれの回答はまったくベクトルを意にしているバラバラな回答のように感じるが、これらは全て同じものである。同じものごとを別の角度から行っているに過ぎない、と僕は思う。
僕は首を振る。
「ねえ佐伯さん、あなたにはよくわかっていないんだ。僕が戻る世界なんてどこにもないんです。僕は生まれてこのかた、誰かにほんとうに愛されたり求められたりした覚えがありません。自分自身のほかに誰に頼ればいいのかもわかりません。あなたの言う『もとの生活』なんて、僕にとってはなんの意味もないものなんです」
「それでもやはりあなたは戻らなくちゃいけないのよ」
「たとえそこになにもなくても? 誰ひとりとして僕がそこにいることを求めていなくても?」
「そうじゃないわ」と彼女は言う。
「私がそれを求めているのよ。あなたがそこにいることを」
「でもあなたはそこにはいない。そうですね?」 佐伯さんは両手に包んでいる茶碗を見下ろす。
「そうね、残念ながら私はもうそこにはいない」
「じゃあ佐伯さんはそこに戻った僕にいったいなにを求めているんですか?」
「私があなたに求めていることはたったひとつ」と佐伯さんは言う。そして顔をあげ、僕の目をまっすぐに見る。
「あなたに私のことを覚えていてほしいの。あなたさえ私のことを覚えていてくれれば、ほかのすべての人に忘れられたってかまわない」
沈黙が僕らのあいだに降りる。深い沈黙だ。僕の胸の中でひとつの質問がふくれあがる。それは喉を塞いで、呼吸を困難なものにしてしまうくらい大きなものになる。でも僕はそれをなんとか奥に呑みこむ。
「記憶というのはそんなに大事なものなんですか?」と僕は別の質問をする。
「場合によっては」と彼女は言う。そして軽く目を閉じる。「それは場合によってはなによりも大事なものになるのよ」
村上春樹. 海辺のカフカ(上下)合本版(新潮文庫) (pp.756-757). 新潮社. Kindle 版.
こちらはまた別のテーマのような気がするものの、生きるということそのものに関することだと思う。ただ言っている意味が僕にはまだよく分からない。佐伯さんは「「記憶」というものが何よりも重要」と説いている。そのことについて僕も随分頭を巡らしてみたことがあるけれど、ピンとくるような、具体的な何かがやはりまだ思いつかない。それでも何か僕らが生きていく上での本質的な何かを提示しているような気がする。でもそんなに「記憶」というのは重要なのかな。この問題についてはいつか自分なりの結論に辿り着ければいいなぁ。
さて、全く異なる作品だが、ロシアの作家ドストエフスキー『罪と罰』から、こちらも作品のクライマックスとなる部分を引用。人を殺めてしまった若者の罪と罰を描く作品だが、本質的な生きる苦しみ、という意味では先ほどの作品と通じるものがあると思う。ただこちらではその回答への道標は大きく異なっている。聖書を引用し、その一部を登場人物に読ませている。有名な「ラザロの復活」である。
「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、『その石を取りのけなさい』と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日もたっていますから、もうにおいます』と言った」
彼女は、この四という言葉に、とくに勢いをこめた。
「イエスは、『もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか』と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。『父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。』こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た(彼女は体を震わせ、寒気をおぼえながら、まるで自分がそれを目の当たりにしているかのように、勝ちほこったような甲高い調子で読みあげた)。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた。 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」
その先を彼女は読まなかった。いや、読むことができず、本を閉じ、すばやく椅子から立ちあがった。 「ラザロの復活の話は、これでぜんぶです」彼女はとぎれがちなきびしい口調でそうささやくと、脇のほうを向いたままその場に立ちつくしていた。なにか恥ずかしい気がして、まともに彼を見あげることができなかった。熱病にも似た震えがまだつづいていた。ねじれた燭台に載っている燃えさしのろうそくは、もうだいぶ前から燃えつきようとして、奇縁によってこのみすぼらしい部屋につどい、永遠の書と向かいあう殺人者と娼婦をぼんやり照らしだしていた。五分、いや、それ以上のときが流れた。
ドストエフスキー. 罪と罰 2 (光文社古典新訳文庫) (pp.242-243). 光文社. Kindle 版.
当時のロシアにどういった背景があったかよく分からないが、とにかく貧困に苦しんだ主人公ラスコーリニコフは、金貸しの老婆と、そこにたまたま居合わせた老婆の義理の妹リザヴェータを殺めてしまう。特にリザヴェータは偶然に居合わせただけであり、いわば口封じのための殺害となるが、彼女はラスコーリニコフの最後の望みとなる女性ソーニャの友人でもあったことがのちに判明する。彼は愛するソーニャに向かって、彼女らを殺害した動機を赤裸々に語り、悶え苦しむ様が描かれるが、ソーニャ自身も娼婦として身を売りながら生活していた人物として、いわば自分を殺していた人間であり、ラスコーリニコフに対して同情と憐れみを感じる。そんなソーニャが彼に向かって放った言葉はこの作品のクライマックスのように感じられるが、意味がよく分からない。
「でも、どうやって殺したと思う? そもそもあんな殺し方ってあると思うかい? あのときぼくが出かけていったみたいに、あんな感じで殺しにいく人間っているもんだろうか! ぼくがどんなふうに出かけていったか、そのうち話してあげるよ……だいたい、ぼくはあのばあさんを殺したんだろうか? ぼくは自分を殺したんで、ばあさんじゃなかった! あのとき、ぼくはほんとうにひと思いに自分を殺してしまった、永久に……あのばあさんを殺したのは悪魔で、ぼくじゃない……もううんざり、うんざりだよ、ソーニャ、もうたくさんなんだ! ほっといてくれ」
ふと彼は、いいしれぬ悩ましさにおそわれたかのように叫んだ。「ほっといてくれ!」 膝に両肘をつくと、彼は両の手のひらで頭をぎりぎりしめつけだした。
「ああ、ほんとうに、苦しいのね!」ソーニャの胸から苦しい嗚咽がほとばしった。
「これからどうしたらいい、さあ、言ってくれ!」彼はふとまた頭をあげ、絶望に醜くゆがんだ顔でソーニャを見つめながらたずねた。
「どうしたらいいって!」彼女はそう叫ぶなり、いきなり立ちあがった。涙をいっぱいにためていたその目が、ふいに火のように輝きだした。
「さあ、立って! (ラスコーリニコフの肩をつかんだ。おどろいた彼は、相手の顔をじっと見ながら立ちあがった)いますぐ、いますぐ、十字路に行って、そこに立つの。そこにまずひざまずいて、あなたが汚した大地にキスをするの。それから、世界じゅうに向かって、四方にお辞儀して、みんなに聞こえるように、『わたしは人殺しです!』って、こう言うの。そうすれば、神さまがもういちどあなたに命を授けてくださる。行くわね? 行くわね?」発作でも起こしたかのように全身をふるわせながら、彼女は彼の手をとり、固くつよく握りしめ、燃えかがやく目で彼の顔を見つめながらそうたずねた。
ドストエフスキー. 罪と罰 3 (光文社古典新訳文庫) (p.9). 光文社. Kindle 版.
「さあ、立って! (ラスコーリニコフの肩をつかんだ。おどろいた彼は、相手の顔をじっと見ながら立ちあがった)いますぐ、いますぐ、十字路に行って、そこに立つの。そこにまずひざまずいて、あなたが汚した大地にキスをするの。それから、世界じゅうに向かって、四方にお辞儀して、みんなに聞こえるように、『わたしは人殺しです!』って、こう言うの。そうすれば、神さまがもういちどあなたに命を授けてくださる。行くわね? 行くわね?」
「あなたが汚した大地にキスするの」
という言葉は何を表しているのか、よく分からない。ただ先の村上春樹の作品とはまた大きく異なっているようなことだけはなんとなく理解される。両者ともども悩める子羊たちの嘆きを直接的に表現しているけれど、その回答は異なる。
僕は究極的な問いを個人の問題として捉えることに苦しさを感じる。
村上春樹の作品では、それらを個人が乗り越えるべき問題として、厳しく個人に投げかけられ、自分で考えて回答を出すように危機迫ってくるように感じられ、それが僕には苦しい。彼の作品を読んでいて、多く問題に僕の問題意識が共鳴して救われるような想いが感じられる一方で、それらを自分個人で切り開いていかなければならないということ、それができるはずだという強い想い、諸々が、なんだか僕には耐えられなくなってくる。それはその時代の日本社会が幸福だったということの証左のような気がして、この時代のちっぽけな自分には到底敵わないように感じてしまう、弱いこの僕にはその強い主体性に、輝く近代の主体的自我に、戦後の煌めく日本の主体性に、僕の息が詰まってしまう。
もちろんそれらを宗教とともに解決するものとして捉えているドストエフスキーに、無宗教の僕が馴染めるかどうかも怪しい。キリスト教のキの字も知らない僕が聖書の一部を引用を読んだところで断片的なものしか理解されないしそれによって救われるのか分からない。ただ先ほどの村上春樹との回答とは異なるということだけが分かる。それだけ。