10時、起床。昨日よりまし。飯を食いながらドジャースの試合を見る。大谷が先頭打者ホームランを打つ。内角の変化球を鮮やかに振り抜いて見事な放物線を描いた。長い対空時間を経てライトスタンドに入り込む。やや不調気味だったので安心の一発。
先月春用に買ったウール100%のシャツを着る。せっかく買ったのにこのまま着ずに終わるかと思ったのでよかった。ストレスが溜まると決まっていらないものを買ってしまう。着るはずのないようなものでも心を満たすために買わざるをえなくなる。買った時は高揚感たっぷりに満たされて、そーっと大事にクローゼットの中に収めては置くものの、いつまで経ってもお目見えすることがない。一時の高揚感のために買っているようなものかもしれない。しかもそれらは高くないと意味がない。高ければ高いほど満たされる。安ければ安いほど物足りなくなる。高い金を払うことで高揚感を得る。実用性は考慮に入れない。
昨日より暑くはないものの、周りを見ると半袖の人もちらほらいる。山吹の花が庭先を黄色く染めているのを目にする。桜はこの前の嵐で大方散ってしまった。

カフェに行く。いつも学術系の本を読んでいる40くらいのおばさんが前に座っている。何の本を読んでいるのか、いつも見ようとするけれど、仕切りがあって絶妙に確認できない。でもなんだか小難しそうな本を読んでいる。丸メガネをかけてコートを羽織りながら、メビウスの3ミリロングを吸う。僕も学術書を読んでメビウスの3ミリロングを吸う。雰囲気が似ているのでもしかしたらそろそろ話しかけられるんじゃないかと思ったりしたが、一度も会話を交わしたことは愚か、目を合わせたことすらもない。もしかしたらこちらだけが気にしているだけであって、あっちは何も思っていないのかもしれない。
浪人時代に読んだ本を整理してから、そのまま大学時代のことも書こうと思った。最も影響を受けたのは大学1年の時にたまたま取っていた社会哲学の授業だった。その影響は多方面にわたり、僕の人生の方向性を決定づけたようなもので、詳細に書く価値のあるものなのだけれど、でも立ち止まって考えてみるに、具体的にはどの分野でどのような影響を受けたのかを書こうとしてもよく説明できなかった。そもそもその思想を、その中心点をうまく言葉にできない。頭の中にはなんとなく、でも確実に僕の思想の核をなしているのだが、それが言葉として明確な形を持っていない。なんでなんだろう。僕はこういうことがよくある。この議論に関しては「自分は必ずこう思う!」と直感的には思うのだけれど、それを説明せよと言われると急に言葉が出なくなってしまう。もちろん明確に理解していなかったりなんとなくそう思っていたに過ぎないのはあるが、それでも絶対にこうだという確信に似た感覚はあるのにも関わらず言葉では説明できないというのは不思議な気持ちになる。じゃあそれは間違った認識なのか。曖昧なままだから正しくないのか、というと実はそういうものではないらしいということもまた、なんとなく確信を持っていて、そしてそれも説明できない。自分に言語能力がなくて失望するということもあるし、あまり厳密に学問を学んでこなかったツケが回ってきたような気もする。よってA先生の思想も改めて総ざらいすることとした。自伝的小説を書くのはここで一旦ストップして(早い)、とりあえず自分の思想を言葉で説明できるように社会哲学について腰を据えてしばらく学んでいこうと思う。多分1ヶ月くらいかかる。
というわけで大学時代に読んだ学術書を引っ張り出してきて読む。プラトンやらアリストテレスやらが出てきてよくわからなくなる。大事な箇所には赤ペンで棒線が引っ張ってあって、雑なメモまで走り書きしてあって少し恥ずかしくなる。と同時にその箇所を読んでも初めて読んだかのように興味深く思うというのは、それだけ深淵で奥深く価値ある思想であるとともに、それを忘れてしまっている自分が自分で情けなくすらある。あれだけ大学時代に読み込んだのに内容を全然覚えていない。これではダメだなと思う。

電車に乗って高田馬場へ向かう。日曜日なので家族連れやらカップルらも多い。かつてはそういうのを見ると羨ましく感じたり引け目に感じたりすることもあったけれど、最近はあまり思わなくなってきた。もしかしたら僕は「愛」というものに恵まれていないのかもしれない。西洋文学や哲学には決まって「愛」が出てくる。愛しているよ、とかお決まりのセリフもさることながら、隣人を愛するとか、永遠の愛だとか。何でもかんでも愛になる。それは神とも結びついたものなのかもしれない。果たしていまだかつて日本に愛があっただろうか。「好き」はある、「恋をする」はある、「切ない気持ち」にもなる、「青春」もある。だが「愛」はあるんだろうか。最近僕はそれがもはやこの世にないのではないかと疑いつつある。日本の伝統文化には西洋の「愛」という概念に当たる言葉は恐らくない。
久しぶりに高田馬場に降り立つ。鉄腕アトムのメロディー、電車の通過する音、若者の笑い声、名も知らぬものの足音、自分の足音。そういえば新歓の頃合いだな。あの頃僕は4月だけで12、3個のサークルに行って幾度もタダ飯を奢ってもらった。あの時と同じ階段、同じ改札、そしてロータリー。喫煙所でタバコをふかしながら辺りを見回す。雑多な看板に溢れたビル群。でも新宿や渋谷ほど大きくない。オシャレでもない。煌びやかすぎない。これぐらいが落ち着く。信号機の色が前より鮮やかになった気がする。そういえばあの建物も昔より外壁がおしゃれになった気がする、あぁこのロータリーにも前は喫煙所はなかった。あぁあれも、これも、そしたらそれも。
馬場歩きをする。当時も毎日馬場歩きだった。どうして東西線に乗らないのか尋ねられたが、自分でもよく分からなかった。お金の節約のためだよって言っていた気がするけど、大した問題でもない気がしたし、遅刻しそうな時はバスに乗っていた。なんとなく街中をぶらり歩きたかったんだろう。
信号を渡って歩き出す。ところどころ飲食店の看板が変わっているように感じる。だいぶスマートになった。シュッとした。でも歩道の感触は変わらない、陽のあたり方も、風のあたり方も。コットンカフェという小洒落なレストランが今もあった。初めてデートに行った時に背伸びして誘った。いくつかネットで検索してここぞというところに満を持して行った。内装がオシャレすぎて場違いな感じがしてうまく馴染めなかった。何を話したが覚えてないけど、のちにその子と付き合った友達も同じ店にデートで行っていたというのを聞いて気まずい思いをした。彼女は僕を振ったあと、同じような冴えない男と全く同じレストランに誘われて付き合うことを決めた。前に来たことある、なんて言っていたのかな、それとも初めてのフリをしていたのかな。どちらでもいいや。
さらに進むとこれまた当時おしゃれで定番のデートスポットだったバーが目についた。大学在学中に一度は彼女と行ってみたいと思っていたけれど結局行かずに終わってしまった。今思うと高田馬場のなんてことないお店で特段デートに最適とは思わなかった。でもあの時は憧れていた。「憧れていた?」何に憧れていたんだろう。「愛に?」あの時は西洋文学を学んでなかったから愛なんて知らなかった。「恋に?」うーん、「青春に?」ふむ、「切なさに?」、、、。
さて、大学に向かっているのは当時読んでいた本を古本でまとめて集めておきたいからだった。学術書はもちろん電子書籍にはないしAmazonでも探したけど案の定在庫なしだった。地元の図書館に行ってもどうせあるわけないので大学の近くの古本屋なら見つかるかもしれないと思った。しかしすべて閉店していた。なんて世の中なんだ、と思ったけれど、日曜日は学生がいないからそもそも定休日なんだと初めて知った。大学に6年も通っていたのに初めて知った。そうなんだ、まぁそうか。
大学の図書館に行けば本を借りられるかと思ったけど、調べたらどうやら年会費5000円払って校友会にならないといけないらしい。しかも館内での閲覧だけで借りることはできない。毎週ここまで足を運ばせるのは流石に億劫なので今回は断念することにした。もしかしたらまた来るかも。
疲れたのでとりあえずドトールで一服。おしゃれなカフェもあったしスタバもあったけど、なんだかドトールぐらいの素朴さが自分に合ってる。小綺麗で上品なカフェに入ると最初はその雰囲気に酔いしれるけれど、なんだか気持ちが張り詰めてきて息苦しくなってくる。それにどこまでも行き届いたきめ細やかさと油断を許さない雰囲気と比べて怠惰な自分が恥ずかしくなってくる。というよりタバコを吸いたかっただけかもしれない。
大学が近いこともあって学生っぽい人が多い。熱心に分厚い学術書を読んでいるものや、スマホで映像授業を見ているものもいる。なんだか熱心でいいなぁと思う。いつも通っている地元のカフェはおじさんおばさんばかりで勉強しているものなんてあまりいないから嬉しい。自分も一緒になって本を読む。はかどる。こういうところで暮らして毎日本を読む生活をしたらさぞうまくいくだろう。もしマイホームを買うなら郊外がいいと思ってたけれど、こういう雰囲気に触れるとやっぱり都心もいいなと思った。

読んでいて気になった箇所。
近代文明は光だけではない。影も付き纏う。
① 自然生態系の破壊
言うまでも無い。
② 地域共同体の破壊
工業化は必然的に「過密地域」と「過疎地域」を分ける。よって共同体は引き裂かれることとなる。(これは工業化だけでなく地域社会の民主化とも重なり合いながら進展していっただろう)。
地域共同体の欠如は無意識的な不安を惹起する。(これは日本特有のものかもわからない)。その無意識的な不安を補うために、快適・便利・安逸な生活を極端に求めて、人々はますます「ホモ・エコノミクス」となっていく。
③ 精神・文化の破壊
元々文化や人々の個性というものは、地域共同体と自然の中から醸成されていくものだから、地域共同体の破壊と自然の破壊は当然精神の破壊・個性の破壊・文化の破壊につながらざるを得ない。うつ病患者の増加や自殺者の増加。そして近代文明に伴う文化の退廃についてはゾンバルトも指摘している。富の増加による文化作品の増加、人々の没個性化、信仰心の希薄化などにより、文化が堕落し、文化の乗合馬車化、公衆の喝采を目論む不健全な没個性的文化となるという。ゲーテは近代が進むと「半文化」になるといった。

