急に寒くなってきたね。僕の一番嫌いな季節が近づいてきているな、と思う。
冬が一番嫌いで、夏が一番好き。あったかいから、元気はつらつとするから。冬って身も心も縮こまってしまうよね。僕はそう。
来年のことをふと頭に思い描いでみる。来年は何か別の仕事をしたい思いもする。僕の気力が保てたらの話だけど。何をするか、明確にはないけど、この仕事をまだ続けていくのか、続けていけるのか自信がないけど、別の仕事に移れるほどの気力があるか知れない。君らは普段どうやって自分の気力を保ってるんだ?僕は今にも消えてなくなってしまういそうな朝露みたいな気力しか無いんだよ。
憂鬱な気持ちが続くとよくないから、憂鬱な曲を聴かないようにしてたつもりだったけど、最近新しい音楽を聴けていないのが何だか精神衛生上、よくない気がする。認知症の高齢者にありがちなこと、かつて興味があったものに興味を示さなくなる。僕じゃないか、と思った。老人向けのワイドショーで認知症の初期症状とか予防法とかあったけど、自分が認知症予備軍なんじゃ無いかと思った。かつて興味のあったことに興味を示さなくなる。僕の祖父はかつて畑仕事に精を出して熱心に植物や果物の面倒を見ていたけど、一時期から興味を示さなくなって、そのうち認知症になって、結局老人ホームに入ることになった。年齢自体もだいぶ高齢だったから驚きというほどではなかったにしろ、人間というのはこのように衰えていくのだというのが身に沁みてわかった。悲しい気持ちもありながら、人間の宿命としての老いを感じさせる一つ重要な機会であったと思うし、僕らの世代は僕らなりに答えを探していく必要があると思った。というのはつまり、彼ら戦前に生まれた世代は自分らの親が衰えていく姿をありありと目の前で目の当たりにしているわけでは無いから(多分)、僕らの世代と老いに対しての考え方が幾分違っているのでは無いかと、いうことである。まぁどうでも良いけど、僕は延命治療なんてゴメンだし尊厳死や安楽死について真剣に議論を進めていく必要があると思ってる。これから先、人口減少で衰えた僕を介護する人がいなくなったとしてどうする?ロボットが僕の面倒を見るのか?AIが僕の話し相手になるのか?chatGPTと楽しくチャットしながら余生を過ごしていくことになるのか?僕はゴメンだね。ロボットに介護されるくらいなら死んだ方がマシだ、と思う。
そんなことは良いとしてね、最近読んだ本の話をしよう。でもこれもまた憂鬱な話だ。はぁ。
遠藤周作の『沈黙』と『海と毒薬』。なぜこれを手に取ったかというと、ドストエフスキー研究の何とかって学者がドストエフスキーの文学に繋がりがある文学作品として、遠藤周作の名を挙げていたから、ずっと気になっていた。前から読もう読もうと思ったけど、だいぶ時間が経ってしまった。
どちらの作品も日本におけるキリスト教受容について述べてるものだと思うけど、僕なりに宗教的な関心から興味深く読むことができた。『海と毒薬』は戦前にあった九州大の生体実験の話をもとにしており、禁忌とされるアメリカ人捕虜の生体実験とその実験に携わるものの緊迫感、そして同時にどこか冷めた諦念、その場の成り行きに流される日本的日和見主義、というのかな、そんなものを感じさせられた。作者の経験談もそこに混ざり合って紡ぎ出されたものだと思うけど、多分キリスト教を信じようとしながら周りに流されていく自分の不甲斐なさを嘆いているようなものにも感じる。本当のところどうか分からないけど、でもなんだか、僕もそんな気持ちがありながら、周りの言葉に流され日和見的に生きているという点では共感するものがないではない。もう何もかもダメなのかなあ思ってしまう、今の自分には何だか毒薬な感じがするよ。「海鳴り」というワードが印象的で頭にこびりついている(特に意味はない)。
『沈黙』は思ったよりも本格的な時代小説でびっくりした。江戸時代の隠れキリシタンをメインに据えて日本におけるキリスト教受容の歴史と、そしてどうしてキリスト教がこの国に根付くことがなかったのか、より広い視点で考えさせてくれる。こちらも実際にいた人物をモデルにしており、脚色はいくつかあるにしてもリアリティのある話に感じられた。中でも、布教に来た宣教師が日本の現状に合わせて、棄教(キリスト教を捨てること)を選び、日本社会に溶け込んでいく姿は、今の時代の日本においても同じことが言えるのではないかと、高尚な理念や理想を掲げたところで、どんなに神聖な宣教師であってもここ日本においては諦めざるを得ないという儚さを感じ取れるような気がする。そんなこと言いたいわけじゃないと思うんだけどね、今の僕には何を与えても苦々しいものに感じてしまうのかもしれない。いくつか救いが感じられる箇所がある気もするんだけど、それをじっくり吟味して未来的思考を育んでいけるほど、今の自分には心の余裕がない。
本日の一曲はこちら。
夜明けの雨はミルク色 静かな街に ささやきながら
降りて来る 妖精たちよ 誰かやさしくわたしの
肩を抱いてくれたら どこまでも遠いところへ
歩いてゆけそう
松任谷由実 / 雨の街を
美しい曲です。「誰かやさしく私の肩を抱いてくれたら、どこでも遠いところへ歩いて行けそう」。
あと今日見た印象的な夢の内容を書き留めておく。おとぎ話だと思って。
部屋中に小さな虫が大量に湧く、気味が悪い。
蟻の大群か蜘蛛の群れか、ウジ虫なのか何なのか判別はつかないながらも、大量の虫が僕のいる場所に入り込んでくる。
みるみるうちに僕の居住範囲を取り囲んでいく。
そんなはずはない。その原因を探る。大量発生した原因がどこかにあるはずだ。自分の眼で確かめてみるしかない。
発生源の奥に辿りづくとそこには一つの頑丈な鉄扉を見つける。
恐る恐るそこに入る。急に眩しい光に包まれて、視界が遮られる。
目が慣れてくると、中にはユーチューバーが使うような明るい照明が数台備え付けてあるのを発見する。
どうやらそれらの照明が僕には明るすぎるせいで、虫が湧いているということが分かる。(理解不能だが、因果関係としては照明が明るすぎる=虫が湧くということらしい)
そしてその照明はすべて死んだ祖母が一人で管理しているようだった。
僕は祖母に照明の灯りを幾分落としてもらうことをお願いする。
祖母は優しく僕の願いを了承し、照明のネジを一つ一つ回して明るさを調整していく。
僕はふいに祖母に抱きしめられ、乳房が僕の胸に当たる。
僕はそれを、あってはならないことだと感じながらも、それに抗えないでいる。
目が覚める。
今日の夢