バイトを辞めると店長に告げたのは3月末ごろだった。出勤前の控え室でパソコンのシフト表を眺めている店長に、後ろから声を掛けるのは相当に勇気がいった。振り返るといつものコワモテの顔、そして黒縁の四角いメガネが光っていた。
「2年になると勉強が忙しくなって、どうしても時間が取れなそうで」と本当にどうしてもな顔をしながら、他方で文系大学生が勉強で忙しいなどというトンデモ理論が通用するわけがないのではないかと常識的な頭が僕を殴りつけてくるようだった。次第に店長の四角い黒縁のメガネに焦点が合わなくなり、話しながらだんだん声が小さくなっていくのが自分でもよく分かった。
店長はそれを聞くと、身体までもこちらに向けて一呼吸間を置いた。僕はどんな雷が降りかかってくるのかとバイトの帽子を握りしめながら、沈黙が解かれるのを待った。
すると店長はおもむろに黒縁メガネを外して、優しく頷いたのであった。外された店長の顔は疲れ切ったサラリーマンみたいな顔をしていた。
それからというもの、人が変わったように店長は怒鳴ることがなくなった。僕に対しては愚か、ベトナム人の無口な従業員にまで帰り際にお菓子の差し入れを持ってきたりした。僕はもともと怒鳴られ続ける情けない自分にたまらなくてバイトを辞めることになったのに、半ば率先して社会貢献をしてやったくらいにさえ思うこともあった。
「高橋くん、バイト辞めちゃうの?」
料理を運ぶすれ違いざまに庄司さんが言った。彼女は僕と同じオープニングスタッフで、 シフトもよく被っていた。僕より一つ年上だったこともあってか、気軽によく話しかけてくれた。積極的に話しかけるのが苦手な自分にはありがたかった。僕はビールジョッキとたこわさの小皿を持ちながら
「いや、まぁ、あとで話す」
と忙しくて手を離せないというふうに言った。彼女は「あぁそう」とわずかな吐息を漏らして、並々注がれたビールの泡が少し揺れた。
店長が先に上がって客がまばらになり出すと、バイトたちで軽く店内に目を配りながら明日の仕込みをしたり床の掃除をしたりする。陽気なやつがここぞとばかりにぺちゃくちゃ雑談に興じはじめるのだが、僕は不真面目なやつだと思われたくないので一応手を動かし続けていた。
「なぁ、最近さ、店長めっちゃ優しくなってね?」
陽気な長谷川が冷蔵庫にもたれかかりながら言う。本当は営業中にもたれかかってはいけないのだ。店長がいないとだいたいみんな気が抜ける。
「確かにねぇ、急に理不尽なこと言い出すこともなくなったよなぁ」
僕はきゅうりの重さを計りながら言った。
「絶対お前が辞めるって言ったからだわ。あれでも意外と気にしいなんだよ、店長って」
「ははは、まぁでもしょうがないじゃんもう毎回ミスるたびに激詰されてたんだから。もうやってけないよそりゃ」
「いやほんとお前も別に悪くないのにな。何であんな言われてたんだろうな、俺はそんなに言われなかったのに」
「そうそう、長谷川にはだいたい怒んないよね。なんでよあれ」
「いや〜、だからお前はもっと言い返せば良かったのに。激詰されるとすぐ黙るからだよ。俺みたいに適当に言い返せば、」
カランカラン。扉のベルが鳴った。
「お客様ご来店でーす」
もたれかかっていた長谷川が、さも待ち構えていたかのように威勢よく声を上げて機敏に動き出した。僕は一呼吸遅れていらっしゃいませをした。
22時で上がって僕はさくっと着替えを済ませた。いつもは23時まで入っているのだが、その日はたまたまバイトが多すぎるので早く帰ることになった。「早く帰ることになった」とは言いつつ、それよりも「早く帰りたかった」という方が適切かもしれない。出勤前に店長から、
「あぁそうだ、高橋くんさ、今日23時までだけどさ、」
急に呼び止められた。前だったら何を言われるのかあたふたしたものだったが、声のトーンでその必要はなさそうだと分かった。
「もしあれだったら今日人多いからさ、早く帰ってもいいよ。どうする?」
「ええ、そうなんですか、うーん、」
早く帰ればもちろんその分の稼ぎがなくなる。せっかく来たんだからなるたけ稼いだ方がいいのはいい。でも。でも、今日は庄司さんがいる。そして23時にみんなと一緒に上がるとその時に恐らくバイトを辞める件に話が及ぶはず。あんまり知られたくない。
「あぁー別にあれだよ、強制とかじゃないから、帰りたかったらでいいよ」
店長も色々気を遣っている。そして僕も色々気を遣っている。頭の中であれこれ思考を巡らせた結果、稼ぎよりも羞恥心が勝った。
「じゃあ、今日は早く上がることにします。ありがとうございます」
「おおいいよ、そうだよな、勉強も忙しいんだろっ、がんばんなよ」
店長は柔らかい笑みを浮かべて言った。僕のトンデモ理論を真に受けているのか、あえて話を合わせているのかよく分からなかったが、僕は少しバツの悪いような思いを抱いて頭を掻いた。
バッグに着替えを詰め込んで鏡で前髪を直した。帽子を被り続けていると、いつも帰るときに前髪が跳ね上がって癖がついてしまう。前髪を上げて額を出してもいいのだけれど、そうするとどうしても心が落ち着かないような気がする。なんとか手のひらで押さえつけて心を落ち着かせるのだった。
控え室からひょっこり顔を出して、庄司さんの姿が見えないことを確認した。店内のざわめきと有線の耳障りのいい音楽。足音を立てないようにしながらこっそり扉を開けると「カランカラン」とベルが異様に高鳴って聞こえた。
店を出るとあいにく春の冷たい雨が降りそそいでいた。折り畳み傘を今日も忘れてしまった。店に戻って傘を借りようかと思ったけど、もちろんやめた。
繁華街のネオンサインやせり出した不揃いの看板を背景に、白い糸のような雨が肌を濡らした。
アラームの響きで目を覚ます。二、三度アラームとイタチごっこをやって朝起きたのは11時過ぎだった。それからパンをかじってジャージに着替えて、昨日と同じMA-1を羽織って家を出た。
大学まで1時間以上電車に乗る。その時間で本を読めば相当教養が身につくと思っていつもカバンに分厚い本を携えてはいるものの、ページを開くことはほとんどなかった。だいたいwalkmanでいつものロックバンドを聴いて、いつも同じあたりで眠くなった。一応walkmanにも定期的に新しい曲を入れて空気を入れ替えてみようとはするのだが、2、3曲聴いてまた元の耳慣れた音に戻ってくるのだった。
最寄駅に着くと3限の授業にギリギリだということに気づいた。バスに乗ると運賃がもったいないから余裕を持って歩いて行こうと毎回思うが、毎回バスに乗った。こんな具合なので大学の授業には出たり出なかったり、単位も取れたり取れなかったり、というのは自分でも予想がついた。ところが、金曜日の3限には欠かさず毎回出席していた。
今日もかろうじて間に合った。席はまばらで僕は後ろの方に座る。ノートを引っ張り出してカバンの中に転がっていたボールペンを握る。消しゴムはない。
おもむろに先生がやってくる。白髪に銀縁のメガネ、蓄えられた髭。
「はい、それでは授業を始めます」
教壇に立って、前だけを見据える。手元は見ない。いつもの先生だ。抑揚はないものの、威厳に満ちた声色は僕の背筋に響いてくる。
「えー、先週の続きです。自由経済の発展とその帰結について、ですね」
僕は頷く。でも見向きもしない。誰を見るでもなく、虚空を見つめて淡々と話し始める。先生の授業に教科書はなく、資料もない。もちろんスライドもない。黒板は一応あるが、ほぼ使わず先生が平然と話す言葉を細大漏らすことなく書き写していく。おそらくまともに聞いている者は自分も含めて2、3人くらいしかいない。もともとは数百人の学生が押し寄せる名物講義だったらしいのだが。
「はい、ではゾンバルトは、合理主義が個人においても社会構造においても収益原理と結合したことに注目して、近代を「経済時代」と捉え、精神的・文化的退廃が避けられない、と言いました。」
「精神的・文化的退廃が避けられない」。僕はノートの概要を書き写していく。一言一句は書けないので、頭で要約してまとめていく。内容は難しいけれども簡潔にまとまった先生の言葉は要旨を捉えるのはそれほど難しいことではない。
「ここまでは、先週話しました」
僕は書き記したあとで、前回取ったノートとだいたい同じことが書かれていることに気づく。消しゴムはない。
「この「経済時代」の特質というのは、社会においては第一に国家の理念が経済的利害によって消され、すべての党派が経済的な党派となり、それゆえ議会制民主主義はこれらの妥協の制度となり、公共生活が消滅していく。今日の日本においても・・・」
「おいおい、またいつもの日本批判が始まったぜ」
前に座る茶髪の男がささやく。
「だから言ったろ?期待すんなって。ずっとこんな調子だから」
隣のMA-1を羽織った男が投げやりに言う。僕はボールペンを強く握りしめて先生の話に集中する。
「このように都市に集中した大多数の人々は、サラリーマンとして「決まった時間に企業に通勤し働き帰宅する」という「機械的生活」を繰り返すほかない」
先生は区切りのいいところで一旦唇を真一文字に結び、一呼吸置く。その間の静けさの中に、どこか深淵の響きが感じられるような気がしないでもない。
「でもさぁ、これ一応名物講義だったんだろ?かつての?」
ささやき声の茶髪はスマホを手元に置きなが言う。
「いやだからバブルとかその時代よ。もう化石みたいなもんよ。まぁ楽単らしいから出席だけしとけばいいんじゃね」
MA-1もルーズリーフは机に出しているが、「自由経済の発展と帰結」のタイトルだけが浮かんでいる。
「第三にこれと関連して、消費生活など全てが平準化され、人々は個性を失う・・・」
先生は手元を全く見ない。頭の中にすべて入っているのだろう。特に語気を強めることもなく講義は続く。僕のノートは少しずつ埋まっていく。
茶髪は野球ゲームの対戦マークを点滅させながら、机に顔を埋めて眠り始めた。黒髪もスマホを出してラインで誰かに連絡をとり始める。
「このように彼らは企業の歯車として部分的な仕事だけを担うから、自由の喪失を感じ、自分自身から疎遠になっている精神、つまり人間疎外に・・・」
一段落するとまた先生は一呼吸おいて、沈黙の問を発する。僕は「精神的・文化的退廃が避けられない」の部分に印をつける。一応前回のページにも同じものが書いてあったのでもう一度印をつけておく。
「お前ってさ、付き合ってるやつとかいないの?」
長谷川が店内を見回しながら言う。ちらほらいる客の笑い声と、有線の音が響いてくる。
「いや〜、俺はいないよ、そんな」
僕は洗場(せんじょう)に溜まったグラスを食洗機に並べて入れる。一応店長に言われた通り同じ向きに揃える。
「でも大学行ってんだったら何かしらあるだろ〜、そういうの」
「いやー何もないよー、」
「気になる人も?」
「うんまぁいるっちゃいるけど」
「いるの?」
こう聞かれた時のために一応考えておいた。
「まぁ大学の人だよ、同じ語学のクラスの」
確かにドイツ語のクラスで美人なのがいるからその子が気になっているということにする。というか美人だと思っているから気になってはいるのだろう。嘘は言っていない。そしてまだ一度も話したことはない。
「へぇーそうなんだー、じゃあ、」
ピンポーン。
「はーい、」
長谷川が一歩先に声をあげて注文を受けにいく。
カランカラン。扉のベルが鳴る。
「いらっしゃいませー」
庄司さんが足早に受付にまわって誘導へ向かう。僕は続けて、いらっしゃいませをしながら次の行動を考える。
「2名様ご来店でーす」
庄司さんの優しい声が店内に響き渡る。僕はこの「ご来店でーす」の「でーす」の言い方がどうも頭から離れない。やみつきになる。もっと客が来て欲しいとすら思う。
「ほら、高橋くん、突っ立ってないで、これ運んで3番さんと7番さん」
店長の語気が強まる。黒縁メガネがまた尖って見える。
「はい、分かりました」
ピンポーン。
「はーい、」
店長が声をあげる。長谷川も庄司さんも接客していていない。
「それ運んで、あと注文も行っちゃって」
「はい、分かりました」
「ほら、ご飯冷めちゃうから」
僕は左手にナスの浅漬けとだし巻き玉子、右手にはビールジョッキ3つ。注文も受けないといけない。
「はい、こちらナスの浅漬けと、だし巻き玉子、そして生ビール3つでございます」
「え?茄子の浅漬けって頼んだっけ?なぁなぁ、これ頼んだ?」
「いやー、頼んでないっすよ。店員さんそれ多分違うっす。」
「え、あ、かし、かしっこまりました」
ピンポーン、ピンポーン。
呼び鈴が続けざまに響く。さっきの客はだいぶ待たせてしまっている。でもこの茄子はどこのだ?三番卓と言われたような言われてないような。
厨房まで戻って店長に聞く。
「すいません、この茄子ってどこのですか?」
「もうそれさっき言ったじゃん、それ7番さん、早く行って」
「す、すいません」
僕はしょんぼりして7番卓に運ぶ。茄子の浅漬けもしょんぼりして見える。お客さんも何故だか反省会みたいなのをしていて、心なしかしょんぼりして見える。
「お待たせいたしました」
ピンポーンピンポーン。
「あぁ高橋くんさ、もうそれ良いから、洗浄よろしく、めっちゃ来てるから」
「わ、わかりました」
洗浄へ向かうと戦場のようにグラスと食器がごった返していた。とりあえず食器を水の溜まった流しの中に突っ込む。グラスはグラス専用の流しに入れる。食洗機に入れるのはあとだ。
「これよろしく〜」
長谷川が食器を持ってきながら言う。なんでだか楽しげに聞こえる。
「あと、グラス足りてないっぽいから早めにね〜」
洗浄とホールが別世界みたいに見える。こちらはグラスの擦れる音。食器がポチャンと流しに飛び込む音。厨房で揚げ物の上がる音に、冷蔵庫のパタンと閉まる音。何から手をつけていけばいいのか分からない。とにかく流しの中に食器とグラスを突っ込む。濁った水がドブのような色をしている。匂いを嗅ぐ勇気はない。これが公園の池だったら絶対手を突っ込まないだろうが、そんなことを考えている暇はない。頭と心を切り離してドブの中に手を滑り込ませる。食器を取り出して食洗機に並べ、「洗浄」の赤いボタンを押す。庄司さんがまた「ご来店でーす」と言った気がした。
棚がどんどん埋まって店内が見えなくなる。有線の音がいつの間にか聞こえなくなっている。ピンポーン、ピンポーン、いらっしゃいませー。6番さん。かしこまりました。ありがとうございます。ご来店でーす。でーす。でーす。
食べ残しの焼き鳥にトマトにたこわさ、何も言わずにゴミ箱へ吸い込まれていく。床に捨ててはいけない。酒の飲み残しはあまりない。氷が余るのでそれは床に捨てる。溶けるから別に良いらしい。たまにそれに滑って転ぶアホがいる。僕はアホじゃない。
「いや〜、今日は大変だったね〜」
閉店した後の控え室で長谷川が言う。やっぱり楽しそうに聞こえる。
「そうだねぇ、途中まではガラガラだったのにね〜」
庄司さんが続ける。帽子を外すと、束ねていた長い髪が音もなく解けて、胸のあたりまで垂れ下がる。実は僕はこちらの髪型の方が好みだったりする。おっとりした温和な雰囲気が増す。
「ですよねぇ、俺もホールやってて歩き疲れたわ。もう今日1日で痩せたかもしれない」
長谷川がお腹をさすって言う。
「高橋くん、洗浄大丈夫だった?」
庄司さんが聞く。
「いや〜、やばかったですねぇ。特に棚が埋まりだして流しも無茶苦茶だしグラスも足りなくなるし注文は来るし。もう考えるのやめてましたね」
「ほんとに?大丈夫だった?また店長にキツく言われなかった?」
「あぁ別にいやー、今日は、今日はそうでもなかったですよ。」
僕はしょんぼりした茄子のことを思い出した。
「それより、洗浄の水が汚すぎて萎えましたね、あれみんなどうしてるんですか?」
「えぇ〜、お前まだそんなん気にしてるのかよ」
長谷川が髪をかきあげて言う。額の汗が爽やかに滲んでる。
「いやだって汚いじゃんあの水。今日なんてドブみたいな色してたからね」
「もう俺全然気にならないよあんなん。別になんか害があるわけじゃないんだからさ」
「私はね、」
庄司さんが割って入る。
「私はね、ああいうのコツがあると思ってて、なんていうか、なるべく頭に感じることをやめるようにするのよ」
「へぇー器用ですねぇ、庄司さんって」
長谷川が言う。
「ううん、そうじゃないね。器用ってわけじゃないけど。慣れればすぐ出来るようになるのよ。うーん、なんだろう。頭と身体を切り離すっていうのかな。頭で感じることと手を動かすことを別のものにするっていうか。そうするとね、気づいたら水が汚くても手が汚れててもなんとも思わなくなるの。」
庄司さんは話しながら、なんだか別のことを思い浮かべているようだった。
「えぇー別に俺はそんなに考えてないっすけどね。だって別に汚れても拭けば良いだけだし。水もひんやり冷たいから気持ちいじゃん、プール入るみたいで。」
「はははは」
三人の笑いが室内に反響した。僕は微笑む庄司さんの横顔を見て、さっきの茄子のことが不思議と頭によぎった。
電車に滑り込んで呼吸を整えながら時計を見る。ギリギリ遅刻。何故もっと早く起きなかったのかといつも疑問に思う、自分の意思の弱さを呪いたくなる。満員電車のサラリーマンたちに埋もれて、誰だか知らない肩に身を預けながらうつらうつらしているとさらに自分が情けなくなる。自らの意思で立っていたい。静かな車内には自分の鼻息と誰かの吐息、ヘッドホンから漏れ出す音楽の欠けら、そして大きなアナウンスの響きがたまに静寂を破る。何故満員電車に乗らなければならないのか。もっと主体的に生きることはできないのだろうか。都内の人口を減らすべきだと思う。そしてそれを口に出したことはない。
1限の授業に珍しく出席する。自分はそんな御託を並べる前に女性と付き合いたい。そしてその前にはまず単位を取らないといけない。単位も取れない人間が女性の心を奪えるとは思えなかった。
「よお!お前もこれ取ってるんだ」
呼びかけてきたのは福田だった。ドイツ語のクラスで唯一仲が良かった。
「うん、一限だけど必修で入っちゃったんだよね」
「なぁ知ってる?今日これ休講らしいよ」
福田はスマホを見ながら言った。
「ええええ?休講なの?」
「うん。さっきメール来てただろ?見てないの?」
「えー、俺走ってきたから見てないわそんなん」
すると大学の職員らしき人が教室に入ってきて、黒板に大きく「休講」の文字が記された。教室はため息で埋め尽くされた。
「飯でも行こうぜ」
福田は外を指さして言った。
「おお、まぁ暇だしな。二限はあるの?」
僕は言った。そういえばなぜだか福田のことを「福田」と呼んだことが一度もなかった。福田も僕のことを一度も「高橋」と呼んだことがない。
「うんまぁ切ってもいいし、お前は?」
「俺もあるけど、行くかどうか迷うわ」
「じゃあ決まりだな」
大学の正門を右に出てまっすぐ行くと右手に大きな神社があった。由緒正しい神社のようだが、学生は特に見向きもしなかった。僕も一度も入ったことはないし話題にも上ったこともなかった。その通りにあるサイゼリアで飯を食った。
「なぁここ良いだろ?」
福田が言った。
「うーん、まぁ良いったってただのサイゼでしょ?」
「いやーそれがね、ここいつも空いてるんよ。今は午前中だけど、昼のランチタイムとか午後の混む時間帯でもいつもガラガラだから。俺はここ「穴場レストラン」って呼んでるんだ」
「ははは、まぁ場所的に穴場かもね」
僕は周りを見渡してみた。確かに人はまばらで、学生も多くはなかった。
「それでさ、お前最近何してんの?」
福田が言った。
「いや〜、特に何もしてないわ。勉強はしたいと思ってるけど」
「勉強?あぁそう。結局サークルは入ってないんだろ?」
「まぁねぇ。結局あそこも行かなくなっちゃったしな。」
「あぁあの政治サークルだよな。俺もあれっきりぱったり行かなくなったわ」
1年の頃、一緒に福田と新歓巡りをしていた時、政治サークルに行ったことがあった。その時は有名な政治家が講演をしてくれるという触れ込みだったので気になって参加してみた。議論が紛糾するというほどでもなかったが、それなりに興味深かった。それから国会議事堂や自民党の本部を見学するというツアーにも参加した。一部の学生思いな政治家からは激励ももらって意欲が掻き立てられる思いもしたような気がする。でもそれからいざサークルの活動に参加してみると、あまりにも月並みで本質的な議題を避けるようなありきたりな話し合いに終始しているようで、結局程なくして行かなくなってしまった。
「そういえばさ、まだ後藤先生の授業って取ってんの?」
僕はつぶやくように言った。
「えぇ?あの近代批判の爺さん?髭面の?取ってるわけないじゃん。お前まだ取ってんの?」
「うん、意外と面白いよ。あの先生」
「いや〜、気持ちは分からんでもないけどさ、でも急に民主主義否定し出したのにはあきれたね。資本主義の欠点がどうだか近代化の負の側面がどうだかさ、まぁそれは学者らしくって良いんだけどね、日本の根幹を否定し出すと話は違うね、高度経済成長の礎みたいなものだろ?そのおかげで今の日本があるわけだから。というかさ、近代化の恩恵しか受けてない世代が近代を否定するなんてかなわないよな。これからお先真っ暗の俺らの世代がいうならまだしもさ」
「まぁな。民主主義を槍玉に上げるのはちょっとな。」
「だろ〜?あそこがあの髭面の本質だよ。それ以上でも以下でもないって」
「ははは、それがあの髭も毎週見てるとカッコよく見えてくるもんだよ。なんというか明治の文豪というかさ、古き良き時代の気品みたいなものが身じみ出てるじゃん。しかもいつもジャケット着て小綺麗にしてて、なんか若い教授陣にはない気高さがあるっていうかさぁ」
「ははは、なんだよそれ。アイドルじゃないんだからさ」
「しかもさ、授業中たまにポケットからハンカチ取り出して口を拭うのよ。あの所作がホントにたまらなくかっこいいんだよ」
「おいおい、ハンカチ王子じゃあるまいし、ハンカチジジイじゃねえか」
「いやね、思想にしたって、一部を除けば的を射ているところもなくはないと思うんだよね」
「まぁどうかな」
「合理主義に蝕まれていって、どんどん人間らしさを失うっていうかさ。現に日本の労働時間の長さだって、」
「おいおい、まーた始まったな。あの爺さんに感化されすぎじゃないか?なんだか僻みにも程があるよって思うよほんと。あのおっさんもしばらく社会に干され続けて相手にされなくなっちゃったから、もう社会に牙を向けるしかなくなっちゃったんだろ、結局。もともとは名物講義だったらしいけど、今は見る影もないんだからそりゃ社会のせいにしたくなるよなぁ」
「まぁ誰も聞いてないのはそうだな。この前の講義も前に座ってるやつがずっと悪口言ってたもんなぁ。」
「でも確かに人間らしさを失うっていうのは一理なくもないかな。どうだろう」
