母が怪訝な顔を覗かせて、「どこかで水のポタポタ漏れる音がする」と言う。それも夜中に突然ドアをノックして、30度くらい開けた隙間から言ってくるのだからこちらとしてはたまらない。大概こういうのはいつものことだから、それほどでもないほんの些細なことを大袈裟に言い出す母親の心配性がまた始まったと思う反面、少し気の毒にも思えてくる。
場合によっては幻聴でも聴こえてきてやしないだろうかと、さっきの怪訝な顔を思い浮かべてこちらも怪訝な顔をしながら母の部屋に入ってみると、確かにポタポタ聞こえる。窓の外からだろう。上から下に規則的に落ちていくのが分かる。ただそんなに気にするほどでもないような気がする。それに今日は澄み渡るような晴天で雨なんて降ってなかった。昨日も、そしてそのまた昨日も。
「うーん、どこからだろうねぇ」
僕は耳を澄ませながら豆電球だけになった暗い部屋の中でつぶやいた。
「もしかしたらこのエアコンがいけないのかもしれない」
一層怯えた様子で母が上の方を指さす。僕は電気をつける。埃をかぶったエアコンは急に注目を浴びて恥ずかしそうに縮こまって見える。
「どうだろうねぇ、エアコンで排水管に水が溜まってポタポタ垂れるとかってあるのかな?」
「うん、きっとそうだろうと思う、うんそうだと思う」
母は同じような言葉を二度続けて言った。心なしか、俯いた表情に影が差し込んでいるように見える。やはり心配になってくる。この前も僕が夜中に音楽をスピーカーから掛け続けていたら、眠れないと言って深夜2時くらいに戸を開けてきた。その時も申し訳なさそうに30度くらいの小さな隙間から影を帯びた顔で告げてきた時には、確かに非常識なことをして申し訳ないと思ってすぐに音を消した。
「うん、このエアコンも古いからね、だって前の家から持ってきたやつでしょ?」
僕は上のエアコンを見ながら、そしてさらにその上の記憶を辿るように言った。
「そうねぇ、だから何年使ってるんだろう」
「前のマンションのリビングで使ってたやつだよね」
「うん、まだ新しかったからこっちに持ってきたのね」
「だからまぁ、ざっと15年は使ってるでしょう」
僕はため息まじりに、良い加減変えたほうがいいと言う意味も込めて言った。母はいつまでも同じものを使うたちだった。スマホにしてもパソコンにしても冷蔵庫にしても何にしても、使えるうちはずっと使い続けた。そして別に手入れをしていると言う訳でもないのになぜだか何でもかんでも長持ちをした。でもいくら母の物持ちがいいと言ったってボロい家電を使いすぎるのは家計にも心にも良くないんだと思った。
「いやもっとよ。パパがこれ買ってきたんだから。確かあの時もものすんごい猛暑でどうにもならなくって、パパが最新のやつ買ってきたのよ。覚えてる?」
「あぁそうだったっけ?」
「そうよー、あんたが暑い暑い言って駄々こねるから、引っ越す前だけどしょうがないからって買ってきて、そしたらそのあと意外と暑さがおさまってさ。じゃあ買わなきゃよかったってパパもブーブー言ってたわ」
母親は昔話になると急に饒舌になる。死んだ父親の話が出る時は尚更だ。
「あぁそう、確かに子供部屋は始終暑かったけど、リビングはわりに涼しかった覚えがあるね」
「そんであの頃はあんた、まだこんくらいだったからね」
母は手でサイドテーブルの端っこあたりを指さす。表情には明るさが戻っていた。
僕はリモコンを取ってエアコンを消す。
「これでどう?またなんかあったら言ってよ」
「うん、じゃあ」
そう言って僕は部屋に戻った。
書きかけの小説に手をつけてみる。始まりは一気に進んだけれど、人物が多くなっていくに従って徐々に手が止まっていった。ほんの一行進むごとにエンターキーを強く押した。乾いたキーボードの音が反響する。どうしようもなくなるとスピーカーで音楽を掛ける。アンビエント音楽かピアノソナタかそこら辺。でも母の顔を思い出すとどうしても手が止まった。といってイヤホンで聴くほどでもない。
気晴らしにベランダへ出てタバコをふかす。プラスチックの固い椅子に座って、前の一軒家を見るともなしに暗い夜空に目を慣らす。風が吹かないと、時間が止まったように何の動きもなく変化に乏しい。肺の中に煙を吸い込んで、静かに吐き出す。タバコの火を見つめてみる。ほんの少しずつ濁った灰に変わっていく。耳を澄ませると、遠くの方で車の通り過ぎていく音が聞こえてくるような。そういえば微かに蝉の鳴き声が響いているような。アブラゼミは夜も鳴いていたのか。目を細めると電線の向こうに小さな星が煌めいて、耳をすませば音も聞こえてくるんじゃないかと思った。ふいに木々がしなる音。黒い電線が揺れて、タバコの灰が舞い上がる。腕にほんのり風の温もりを感じた。
部屋に戻って詩を作ることにした。昼間にあたりを散策した時のことを思い出して書いてみる。どこに行ったわけでもない。カフェに行って本を読み、暇だから一つの駅を散歩してまたカフェに入った。涼むために入ったけど冷房が強すぎてまた散歩に出て暑くなってきて、それで昔よく行った公園の木陰に寝転んで涼んだ。深緑の芝生と夏の青空のコントラストに暑さも吹き飛んだ気がした。そしてその傍にある小さな池の中を眺めて、アメンボやシオカラトンボ、そして小さな糸トンボを見つけて昔父親と遊びに来た日を思い出した。かけっこだ!と突然言い出して、走っていく父親の大きな背中を追いかけて、気づけば池に飛び込みそうになっていた。ギリギリのところで父親を追い抜くことができた喜びも、今思えばわざと負けてくれたんだろうという感じもする。そんな父親はもういない。
真上から降りそそぐ陽
肌を焼くようで
木陰を縫って歩き
ぽつぽつ聞こえだす
蝉の声とせせらぎと
草木や土の香り
公園のわき
思い出したように
据えられた池
アメンボ描く波紋と
風になびいたさざなみが
静かに時を刻んで
澄んだ水面に浮かぶ青空
もう少し思い出に耽った内容も入れるべきかと思ったが、詰め込みすぎるとそれもいけないと思った。
コンコン、ドアが鳴った。母がまた声をかけてきた。さっきよりもさらに隙間を狭くして。
「おう、どうしたの?」
「まだポタポタ言ってるんだけど・・・」
母はか細い声で言った。こっちに来てほしいとまでは言わない。
「えぇー?本当?」
僕はパソコンをつけっぱなしのまま席を立った。
「エアコンは止めたでしょ?」
「うん」
不安そうな面持ちには、もしかしたら自分が悪いのかもしれないという自責の念にすら駆られているようだった。
「窓も閉めてるよね?」
「うん」
僕は今一度耳を澄ましてみる。母は叱られる前の子供みたいに見える。しんとした室内にはやっぱりポタポタが鳴っている。
「やっぱり鳴ってるなぁ」
あえて声を強めて言う。母親ではない誰かが悪いとでも言うように。
「でもおかしいな、どこの音なんだろう」
僕は窓を開けてベランダに出る。排水管のあたりをスマホの明かりで照らしてみるが、特に水滴は見当たらない。
「多分そこじゃないのよ。私も見たの。でも水は垂れてないでしょ?」
「うーんそうだねぇ、でも、ここから聞こえてくるけどなぁ」
「多分ここの中なの」
母が白い内壁の中を軽く叩く。上にはエアコンが取り付けてある。
「えぇー?ここ?」
僕はまさかと思う。疑ったような顔で母を見つめると、自信のなさそうな顔をしている。そして疑いすぎたことをちょっと後悔した。
「ここかー」
恐る恐る白い壁に耳を当ててみると、一番高鳴って聞こえてくる。母の言う通りだった。
「ここだ、ここだよ」
母は少し安心した様子で
「そう、この中にエアコンの排水管が通ってるのよ。だからここで水が漏れると外が漏れてなくても音が聞こえるの」
言わんとしていることは分かるが、妙なこともあるもんだと思った。
「まぁ今日はちょっとどうしようもないか」
「そう、だから今日は下で寝ようと思うの」
母は枕を持ってまた曇った表情で言う。1階の畳の部屋で寝るということらしい。
「布団敷くの?今から?」
「いや、このマットレスごと持ってっちゃおうかなって、暇なら手伝って!」
僕はベッドに敷いてある薄いマットレスを担いで下に持っていった。
「おう、これでいいかね」
「うん、とりあえずは今日はここで。また明日あたり業者に聞いてみるから」
「わかった。それにしてもこっちはこっちで暑いんじゃない?」
「まぁ大丈夫よ、冷房もあるし、1階の方が涼しいから」
「あぁそう、でもまたここでも、時計の音が気になるとかなんとか言い出したりしないだろうね?」
僕は冗談のつもりで少し笑いながら言った。
「うん・・・」
母は少し間を置いて、そのあとは何も言わなかった。僕はまた言いすぎたと思って無意味に頭を掻いた。
「あっ、あと、上の電気消しといてね」
「わかった。じゃあね」
僕は母の部屋の戻って窓を閉め、もう一度部屋の中で耳を澄ませてみた。まだポタポタ言っていた。もしかしたら僕も幻聴なんじゃないだろうか。まさか。いやでも目には見えない。そして手で触れることもできない。本当にここに水が漏れているのだろうか。自分自身にも自信が持てなくなってくる。
あたりを見るとサイドテーブルには温度計が置いてあって、29℃の文字が浮かんでいた。そういえばこの温度計も、父親のいた時から使ってるものだった。僕は電気を消して部屋に戻った。
