たまには文章でも書いてみるかと思ったけれど特に思うことがない。書くならまともな文章でなければいけないから、まともな出来事が起こってからにしようと思って日々を過ごしていると意外とまともなことが起こってくれないので困るっちゃ困る。そもそも自分の憂鬱の最大の要因がそういう完璧志向なところにあるんじゃないだろうかと最近思ってる。といっても今までの文章を読みおこしてみたところで、どれもこれも穴の空いた藁半紙みたいなものでどこが完璧志向なのか分からないと言われてしまいそうで苦しくなった。でもなんにしたって自分は自分の出来うること以上のものを自分に要求してしまう節がある。仕事にしたってやるからにはまともな授業にしなきゃいけないと思ってるし生徒に対してだってまともな受け答えができないと始まらないと思ってる。でもそれは当然のことなんだから過大な要求ですらないように今書いていて思ったのだけれど、でも自分の能力というものを幾分も考慮に入れていないのだからやっぱり過大な要求なんだと思う。これをやめたいと思ったり基準を下げてみようとか言われたりしたこともあったけどどうしてもそれを肯うことができないのだよね。なぜって言われてもよく分からないから途方に暮れるんだけどさ、それは多分自分に自信がないということ、あるいは自分に自信があるということ、なのだと思う。
さて、今日は昼過ぎに起きた。休日だからこんなもんだよねっていう自分と、まともな休日を過ごすべきだっていう自分が頭の中で朝からイタチごっこをやっていた。僕はそれを遠目でみながら飯を食った。冷蔵庫に入っているご飯と焼き鳥をレンジでチンして食った。40秒温めたけどご飯の底の方がまだ冷たかった。でもめんどくさくてそのまま冷たさを味わったらまぁひんやりしていて良かった。そう言えば僕はカップラーメンの3分を待てない男なのだった。いつもあと20秒というところで蓋を開けてしまう。どうしても目の前から匂いが溢れてくると我慢ができなくなる。冷たくても目の前にご飯があれば温めずに食べてしまう。実に動物的でしょうもないと思う。
ベランダで一服をしながらプラスチックの椅子に腰掛ける。黒ずんだホコリみたいな雲が遠くの空に浮かんでる。雨が降るかもしれない。そんなことを考えていると不意に蝉の声が耳についた。ミンミンだかジリジリだかツクツクも混じっているような。なんだかやかましい。ぼーっと蒸したタバコと雲の黙って漂うさまと、どうやっても調和が取れないじゃないか。タバコの灰を払うように忙しない音も追い払いってしまいたい。そもそもこんなに蝉の声はうるさいものだっただろうか。昨日はこうじゃなかった。でも今日から急に鳴き出すものでもないだろう。というよりも昨日は仕事でそんな余裕がなかったからかもしれない。外界の音に耳を澄ませるだけの心のゆとりがなかった。今日は何をするか。授業で何を話すか、時間が余ったらどうするか、生徒の質問にまともに答えなかったらどうしよう、そんなことがずっと頭の中を駆け巡っているのだから蝉の声どころじゃない。休日になると思い出したように騒ぎ出す蝉。それは僕自身の心持ちを表しているのかもしれない。

それから適当に着替えて外に出た。短パンにサンダル、トップスはチェックの長袖シャツ。ユニクロで買ったこの長袖シャツがお気に入りで最近いつも着ている。色味も気に入ってるしクテっとした柔らかさがよく肌に馴染む。それに安いから汚れても使い倒しても罪悪感がないからいい。春先に買ったウールの光沢感がある上品なシャツもあるんだけど、あれだとどうしても綺麗に使わないと思って意外と手が伸びない。身の丈に合ったものを買うのが良いと改めて思った。
それで鏡の前に立ってそんなお気に入りのシャツを眺めてみる。思ったよりもお気に入り感が薄く感じられる。着心地は抜群だし羽織った感じと手元で見る感じがいいのにこうやってみるとなんだか野暮ったいかもしれないと思った。そういえばこの前、この格好で会った女の子に「なんかフェス帰りの人みたいだね」って言われて幾分イラっとしたのを思い出した。確かにそんな感じがする。
カフェに入って冷房のありがたさが身に沁みた。じゃあ長袖シャツを着るなと思うかもしれないけど、カフェに入るとどうせ寒くなるからこれでちょうど良いのだ。フェス帰りだって冷えた時のために長袖なんだろう。それに意外と短パンに長袖って合うんだよ。なんか知らないけどおさまりが良くなる。これに半袖のTシャツにしようものならただのわんぱく少年が誕生する。ただでさえ童顔で子供っぽくみられるのでこういう細かなところで差をつけていかないと生きていけない性分なので僕はやっぱり生きづらい。
一番奥の席につけて気分がよろしい。土曜日だけど空いていることもある。奥の席には40代くらいの丸眼鏡のおばさんが今日もいる。毎日いる。僕も毎日いる。あっちも僕のことを毎日いると思っている。多分絶対思ってる。最初はなんだか気に食わないような感じもあったけど、最近はもはや同志のような戦友のような心持ちを抱いて席に着く前にいつも探してしまう。いると安心する。いないと不安になる。心の中ではみるたびにハイタッチをしているつもりだが相手はどうだろう。話したことはもちろん一度もない。

漱石の「坑夫」を読んだ。結構良かった。比較すると分かりやすい。以前読んだ「野分」はハッキリと伝えたいことが明確にあって、さらに人物の性格も分かりやすい対照をなしている。そしてそれがどうにも心を打たなかった。道也先生の説教が長すぎてよく分からないというのもそうなんだけれど、思想的な説明というのは頭ではわかっても心にはこない、という時がある。すべてがすべてではないとは思うし哲学の論理的な説明を片っ端から排斥したいほどではないにしろ、分析分解というのはどうも僕の心と相性が良くない、と思う。一方「坑夫」の方はストーリーがなかなか進まないし主人公が矛盾の塊だし結局何がテーマなのかもよく分からないけれど、それがためになのかなんなのか、不意にその分からなさが心にきた。なんで心に来たのかよく分からなくって、読み終わった後に付箋を貼ったところをもう一度読み直してみたりしたけど、なんだかここぞというところがハッキリあるわけじゃなかった。さっき読んだ時はこの部分が胸にきた気がしたけど、単体で読み直してみるとそうでもないような気もする。不思議なものだと思う。
さて、今年の夏は漱石を読んだ。よく読んだ。久しぶりにハマり込んだ。こんなに一人の作家を集中的に読んでいくのは多分村上春樹以来だと思う。あれは確か2019年くらいだったから7年ぶり2回目ということになる。夏なんだから海に行ったり花火を見たりスイカを食ったりするべきかも分からないけれど、それを一つもせずに終わってみれば(まだ終わってないが)、漱石をずっと読んだ夏だった。暑い夏だったけど、頭の中には透き通る風が吹いていた、新しい風だった、自分に馴染む風だった、吸い付いてくるようだった。
何が良かったんだろう。それを説明すると時間がかかりそうだし、まともに説明するとなるとまた僕のくだらない性質が発動するだけだからあんまりやりたくないけれど、おそらく「矛盾を矛盾のまま感覚的に表現することの後ろ盾を得た」というような感じがした。何でもかんでも白黒ハッキリさせようとする自分の「まともさ」の呪縛みたいなものから幾分解放してくれるような気がしたというか。自分の心に映じた違和感のかけらみたいなものを、なるべく論理的に道筋立てて論拠も立てながら説明していかなければならないと思っていた。自分の感覚は自分の感覚なのだから、それでは説得力のかけらもないしそのまま伝えても意味がないと思っていた。受け取ったままの生の感覚をどうにかこうにか理解可能な段階にまで整えて、それをかつて論じられていた社会問題と共通点を示せる状態で提示しないと相手に伝わらないと思っていたし、価値がないと思っていた。説明できないと意味がないと思っていた。あるいはそうしないと自分を認めてもらえないと思っていた。自分に価値がないと思っていた。うーん。自信がなかった。もっといえば自分の感覚に自信がないから説明しないといけなかった。いや、感覚自体に価値があると思ってなかった。
まぁいいや。ここら辺は文学研究の方々に任せる。僕は感覚で攻めていくしかない。そのまま思ったことを書くのが良い。カップラーメンを待てない人間だから。冷飯を冷飯のまま食う人間なのだから。
